こばやし・なおゆき 1965年東京生まれ。大分医科大学医学部卒、慶応義塾大学で医学博士号を取得。日本で約8年間医師としての研さんを積み、2000年代に南アジア、中東、アフリカなどの人道支援に飛び回るようになる。14年8月からベトナムの首都ハノイの東京インターナショナルクリニック院長。現地の日本人の健康を見守りつつ、ライフワークと志す紛争地支援の機会をうかがう。
「まだ派遣回数は少ない方なのですよ」。ハノイの診察室では柔和な笑みを浮かべるが、紛争地の苦悩する人々を目のあたりにし、助けてきた「戦傷外科」の医師としての顔を持つ。
国際NGO国境なき医師団(MSF)や国際医療ボランティア団体AMDA(アムダ)の海外派遣スタッフとして、01年のスリランカを皮切りに、アフガニスタン、ナイジェリア、パキスタン(2回)、パレスチナ・ガザ自治区、カメルーンを訪れた。米国の同時多発テロで混乱したニューヨーク市にも現地入りし、被害者支援に走った。
「有史以来、戦争は常にある。なくなったことはありません」。医療・人道援助NGOの派遣は、マッチング制だ。派遣登録をした人にオファーが届き、都合がつけば派遣に応じる。
紛争地では、銃撃や爆撃などで負傷者が病院に運び込まれてくる。外科医として執刀しつつ、専門スタッフとチームを組んで手足を失った人などの心理ケアにも取り組んだ。
2年前のガザでは200メートルほどの距離に着弾し、爆風が宿舎を襲った。当時はイスラエル軍の攻撃が激しく、「ガラス戸と建屋が揺れ、爆圧による耳痛がありました」。
派遣される外国人医師に危険が及ぶことは多いわけではない。「派遣地によりますが、スタッフの安全確保を優先しています。治安が悪い地域では誘拐のターゲットとなる恐れもあり注意が必要ですが、夜は仲間とおしゃべりするなど、いつも緊張状態というわけではないのです」。日本では当直やオンコール(勤務時間外でも呼ばれれば対応できるよう待機しておくこと)で精神的に疲弊したが、ある種の「気楽さ」もある。
■高校時代に夢見た姿
「視力や手指の運動神経の衰えがない限り、外科医として国際的な人道支援をライフワークとしていきたいのです」
医師を志したのは、高校生の頃だ。1980年代の当時、貧困地域の国際支援が必要と叫ばれながらも、国境なき医師団の日本事務局(92年発足)などは整備されていなかった。これといったきっかけは思い出せない、「使命感」のようなものだった。
青年期の夢を初志貫徹できる人は多くはない。「医師を目指す人は皆、理想に燃えているのです。医学部に入学した人の3分の1ほどは、恵まれない人を助けたいという強い思いを抱いていると思います。しかしほとんどの人は卒業後、資格、肩書、収入、家庭、育児といった現実路線を選びます」。
「理想と現実のバランス感覚が大切です。たった一度の人生ですから」。ハノイ在住の日本人を助けつつ、世界の弱者を助けに再び飛ぶ時期を見定めている。
■世界のネットワークを強みに
新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)は、人の国際移動を難しくしている。当面は動きづらい中、コロナ禍の情勢を把握するために、これまでの国際支援活動で出会った仲間とのネットワークが生きている。
新型コロナの脅威度がどれほどなのか、まだ意見が分かれるところではある。「7月、ニューヨーク留学中の派遣仲間のアイルランド人医師と話しました。『人工呼吸器が足りないどころか、ここでは余っている。呼吸器を装着した感染者が次々に死んでしまうから』と言っていました」。
世界ではワクチン開発が急がれているが、「本当に安全が確保されているのか、問い直していきたい」。ワクチンの投与を全体主義的に急げば、重大な副反応などの新たな悲劇を生む可能性がある。国際協力に心を躍らせたかつての青年は、いまも弱者支援への情熱を胸にたぎらせる。(ベトナム版編集・小故島弘善)
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