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【アジアの本棚】『専門知は、もういらないのか ──無知礼賛と民主主義』

■「反知性主義」に押し流される世界

米国の「反知性主義」については、日本でもある程度知られるようになってきた。医学や法律から外交まであらゆる専門知識を軽視し、無知で構わないという一種の居直りに近い考え方のことだ。2019年1月号の本書評で紹介した『ヒルビリー・エレジー―アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(J.D.ヴァンス)も、中西部の労働者層が東海岸の高学歴層やメディアに強い不信感を持つ一方、ネット上に流通する都市伝説のような(しかし、自分の考えに近い)情報は信用するという傾向に触れていたが、本書はそうした問題に踏み込んで、なぜ米国が「無知を礼賛する国になってしまった」のか分析している。著者は安全保障専門の大学教授だが、見ず知らずの人から「自分の書いた重要な中東問題の論文を読んでほしい」という電話を受けた経験を書いている。この人物は「中東に行ったこともなく、中東の言葉もできず、そのテーマで教育を受けたこともない」と認めたうえで「1カ月に1冊本を読んでいれば専門家になれる」と主張したという。

本書に登場する米国の人々はこのほか、ウクライナがどこにあるのか知らないのに軍事力行使を主張する。著名な天体物理学者に学部の2年生が「あなたの考えも僕の考えと同じくらいいいです」と平気で言う。映画スターが信奉する怪しげな民間療法を支持し、医師の警告などものともしない。

■ゆがんだ「自己愛文化」

しかも、これらは一部の「非常識な人」の話ではなく、米国社会に静かに広がりつつある傾向だという。著者はその背景として「安易な平等感をもたらす」インターネットの普及や、教育を商品化している大学の在り方まで論じているが、深刻なのは民主主義の根幹と重なる部分だろう。差別の撤廃、教育の向上といった米国の社会変化は「人種、階級、性別の壁を破り、ほとんど交流のなかった少数の専門家と多数の人が直接接触するようになった」。そのこと自体は評価すべきだが、結果として「知識への敬意が増すことはなく、誰もが同じように頭がいいというおかしな確信がアメリカ人の間に広まった」と著者は指摘する。「どのような意見も等しく価値がある」という考えは民主主義の基本だが、同時に人間は学び続けなければ物事を正しく判断することはできない。現在の米国ではそれが「どんなことについても、ある人の意見が他の人と平等に認められるべきだ」という「自己愛文化」に変質してしまったという。日本ではこれほどねじれた思考は広がっていないと信じたいが、そもそも知識などいらないという態度の前では、情報は無力だ。「行き過ぎた平等」と「反知性」の潮流に押し流される世界はいったいどこに行き着くのだろうか?

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『専門知は、もういらないのか──無知礼賛と民主主義』

トム・ニコルズ 著(高里ひろ 訳)みすず書房

2019年7月発行 3,400円+税

序論

1章 専門家と市民

2章 なぜ会話は、こんなに疲れるようになったのか

3章 高等教育―お客さまは神さま

4章 ちょっとググってみますねー無制限の情報が我々を愚かにする

5章 「新しい」ニュージャーナリズム、はびこる

6章 専門家が間違うとき

結論 専門家と民主主義

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【本の選者】岩瀬 彰

NNA代表取締役社長。1955年東京生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業後、共同通信社に入社。香港支局、中国総局、アジア室編集長などを経て2015年より現職

※特集「アジアの本棚」は、アジア経済を観るNNAのフリー媒体「NNAカンパサール」2019年9月号<http://www.nna.jp/nnakanpasar/>から転載しています。


関連国・地域: 日本
関連業種: 社会・事件

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