ヘル・サントソ・えとう 1960年、北スマトラ州メダン出身。残留日本兵の衛藤七男氏を父に持つ。79年に発足した残留日本兵の互助組織「福祉友の会」の理事長を2000年から務め、08年に会長に就任。パナソニック・ゴーベル・ライフソリューションズ・セールス/マニュファクチャリング・インドネシアの副社長も務める。
残留日本兵は、第二次世界大戦後にインドネシアに残ってインドネシア独立戦争のために戦い、のちにインドネシア政府から国家の英雄として認められた。1960~70年代には、駐在員や通訳、インドネシアのことを誰よりも知るアドバイザーとして、日本企業の進出を支援した。
「父は戦争の話をほとんどしなかった」とヘルさんは話す。一方、同じく残留日本兵の父を持ち、福祉友の会を支援する石井ヤントさんは「戦争の悲惨さや苦しみをよく聞かされた」。しかしヘルさんもヤントさんも、父親たちが現在に至るまでの両国の友好関係の礎を築いたと誇りを抱いている。
■「心友」と1世の手記を出版
ヘルさんは「父の話を聞いたことのある人に、父が何を語っていたのかを聞いてみたい」と話す。「残留日本兵の2世として、足跡を形に残していかなければ」。そんな思いが、父たちが立ち上げた福祉友の会の活動に力を入れる根底にある。
きっかけは、インドネシア全土に散らばった残留日本兵1人ひとりを探し出し、手紙を送るなど福祉友の会の設立に尽力した乙戸昇氏の亡き後、ヤントさんの父の石井正治氏から「福祉友の会を頼む」と記した直筆の手紙を受け取ったことだ。
時がたつにつれ、父や戦友の足跡はインドネシア人や日本人の記憶から消えていってしまう。ヘルさんはそんな焦燥感から、インドネシア各地の戦友会のメンバーに会い、敗戦後に日本に戻った元日本兵とも交流を深めた。
福祉友の会の運営を継続させるには、資金面も含めて問題は少なくなかったが、そのたびに多くの仲間が力を貸してくれた。そのうちの1人が、インドネシアに私財を投じて日本語学校を設立し、無償の愛の精神で日系2世や3世、そして一般のインドネシア人児童に奨学金を与えた小倉みゑ氏だ。福祉友の会の活動を知った日系企業の駐在員らも協力してくれた。
「戦時中に共に戦った仲間は『戦友会』。今の平和な世の中で協力してくれる仲間は『心友会』や。心と心がつながっている」とヘルさんは話す。
乙戸氏が福祉友の会設立から16年8カ月の間、1カ月も欠かさず手書きで発行してきた月報をまとめた抜粋集「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声」を2005年に発行した。ヘルさんたちの「1世が歩んだ歴史を形にして残す」という決意が実を結んだ瞬間だった。
■1世が起こした事業、根性で継続
ヤントさんは、日系人として学校でいじめを受けたこともあったが「おやじは命をかけて独立戦争に参加したんや」と負けなかった。日本式の厳しさで育てられ、日本語を勉強して日本に留学し、日本人の勤勉さも学んだ。独立戦争後、ゼロから自転車やサンダルを作って事業を起こした石井正治氏は、その後こんにゃく工場を設立。ヤントさんが事業を継ぎ、現在は息子のジョハンさんが社長を務める。
■記録を通して心でつながる
現在、残留日本兵の子孫は1世の軌跡を残す「歴史ギャラリー」の設立に向けて準備を進めている。当時の資料をデジタル化して保存し、展示する歴史ギャラリーの設立準備を機に、積極的に2世との関わりを持つようになった3世も多い。歴史ギャラリーにはカフェスペースも設置し、次世代の日系人だけでなく、一般のインドネシア人にも気軽に訪れてもらえるように設計した。7月の開館を予定している。
「私の使命は、両国にアイデンティティーを持つ『ダブル人間』としての誇りを次世代へと継承していくことだ」とヘルさんは話す。「次世代の日系人には、残留日本兵の志と、向学心や向上心を兼ね備えた『志士』として生きてほしい」と願う。日系人の「志士」は、歴史と国を超えた人と人が「心」で結ばれている。(インドネシア編集部・高島雄太)
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