こたに・まりさ。タイ人の父と日本人の母を持つ。慶応義塾大学文学部卒業後、タイの名門チュラロンコン大学大学院タイスタディーズ修了。国際協力機構(JICA)や一般財団法人の海外産業人材育成協会(AOTS)の研修監理員を経て、2008年からはタイを拠点に活動。18年間で政府機関、民間企業、非政府組織(NGO)など300以上の団体で通訳経験がある。
小谷さんはタイで生まれて、1歳のときに日本にやってきたという。少女のような雰囲気の残る小谷さんが説明してくれたその背景は、驚きの内容だった。
タイの大学に奉職するインテリだった小谷さんの父は左翼的思想の持ち主で、民主化運動では有名なリーダーだったという。
ところが、1976年10月に「血の水曜日事件」と呼ばれるクーデターが発生する。73年10月の「血の日曜日事件」を機に学生の間で高まった民主化の機運を警戒した軍部が主導したもので、1,000人を超える死傷者が出る。
幸運にも、小谷さんの両親は日本の文部省(当時)の招待で、たまたま1週間の予定で日本に滞在中だった。民主化運動のリーダーだった小谷さんの父がそのときタイにいたならば、命を落としていたかもしれない。
惨事を免れた小谷さんの父だが、軍政が強まった母国に戻れば、身に危険が迫る恐れがある。そのまま日本にとどまることにし、京都にある大学で職を得た。祖母と一緒にバンコクに滞在していた小谷さんを母が迎えに来たのは、血の水曜日事件発生から半年たった後だった。
日本での暮らしを始めた小谷さん一家。70年代には、一家全体が北朝鮮に3週間特別招待されたこともあったそうだ。
■文化の懸け橋に
日本での小谷さんは京都の幼稚園に通い、家庭の都合で東京にある小学校に転校した。学校でハーフだとからかわれるのが嫌で、当時はタイとは関係のない生き方をしたいと思っていたという。
転機は中学生のときに訪れた。「サバティカル休暇」と呼ばれる長期休暇を取得した父と一緒にバンコクに行った小谷さんは、現地にある日本人学校に1年間通う。タイ人の情の深さと生き生きとした姿が強く印象に残った。「バンコクでの1年間は本当に楽しく、タイ人と日本人とのハーフであることに自信を持てるようになりました」と小谷さんは当時を振り返る。
小谷さんの父は相変わらず精力的に活動。80年代には、長年にわたりバンコクのスラムで子供たちの教育などを支援してきた「スラムの天使」プラティープ・ウンソンタム氏やミャンマーの民主化運動の指導者で、日本に留学中だったアウンサンスーチー氏とも親交を深めたという。日本の若者がタイの地方でホームステイをしながら、学校の体育館や食堂の建設を手伝うというボランティアツアー「タイ・ワークキャンプ」も立ち上げた。
高校生になった小谷さんも、そのワークキャンプのサポートでたびたびタイを訪問した。そこでは、はじめはどこかよそよそしい雰囲気だった日本の若者が、最後には泣きじゃくりながらホームステイ先を後にする姿を何度も目にした。
大学に進学し、将来日本とタイの文化の懸け橋になることを考え始めた小谷さんは、ワークキャンプの活動に一層力を入れる。そのワークキャンプは父が亡くなるまで23年間続き、のべ1,800人の日本人が参加した。大学ではタイから来た留学生とも仲良くなった。学園祭では彼らと一緒になってタイ料理の屋台を出店したこともいい思い出になった。
■タイ留学へ
「日タイの懸け橋になりたい」という思いから、小谷さんは大学卒業後、日本での就職を選ばず、タイのチュラロンコン大学大学院に留学。欧米からの留学生たちと一緒に机を並べ、タイ語と英語を習得した。
小谷さんは08年にタイ人男性と結婚。現在はタイを拠点にフリーランスの通訳者として活動している。日本企業によるアピシット首相への表敬訪問で通訳を担当したほか、加藤勝信内閣府特命担当相(少子化対策、男女共同参画)がタイを訪問した際も通訳者として同行した。
新型コロナウイルス禍でも、リモートで商談などの数多くの通訳をこなしている小谷さん。顧客である日本企業とタイのビジネスパートナーがより深い相互理解を得られるよう、両国の商習慣の違いにも細かく気を配って通訳しているという。自信をなくしたとき、「聞き取りやすい発声、声のトーン」を心がけようと日本の話し方教室にも通った努力家でもある。
小谷さんは通訳者としての経験を重ねていくうちに、「日タイの文化の懸け橋になりたい」という当初の目標が変化していったという。「両国の懸け橋となるのはあくまでも日本企業とタイのパートナー企業。立派な橋がかかるようにお手伝いすることが、私の役割だと気づいたんです」。(タイ編集部・坂部哲生)
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