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【アジアの本棚】 『中国の五大小説(下)水滸伝・金瓶梅・紅楼夢』

中国文学者の井波律子さんが5月に亡くなった。古典小説の翻訳から中国史のエッセイまで、多彩な仕事を残した現代トップクラスの研究者だった。享年76歳は昨今の日本女性としてはいささか早く、もっと活躍してほしかった人だけに惜しまれる。

追悼の意味も込めて井波さんの『中国の五大小説(下)水滸伝・金瓶梅・紅楼夢』(2009年、岩波新書)を紹介したい。

上下分冊で、上巻は『三国志演義』『西遊記』、下巻で『水滸伝』『金瓶梅』『紅楼夢』という中国の5大小説を分かりやすく概説した良書だ。今回は曹雪芹(そうせつきん)の紅楼夢が入っている下巻を取り上げることにした。

三国志と西遊記はもちろん、水滸伝、金瓶梅までは邦訳だけでなく、翻案や漫画まで出ているので親しんだという方も多いと思う。だが、紅楼夢となると日本ではがくんと知名度が落ちる。

18世紀中ごろの清朝最盛期、第6代・乾隆帝の時代に書かれた長編小説で、中国の『源氏物語』ともいわれる。一言で言えば、世間と隔絶した豪壮な邸宅で暮らす貴族である賈氏一族の少年、宝玉と彼を取り巻く個性的な美少女たちの物語だが、中国では何回もドラマ化され、国民文学と言っていい存在だ。

作者の曹雪芹自身が清朝の高官から没落した家庭の出身で、自身の経験を作品に反映させたとみられる(全120回のうち彼自身が書いたのは80回までで、残る40回は別人による「補作」とされている)。

紅楼夢の魅力は何といっても多彩な登場人物が織りなす壮大なスケールと、豪華な衣服、建築、園芸、食に至るまで当時の上流文化が精密に書き込まれていることで、いったん物語世界に引き込まれると病みつきになる。

井波さんの評価も「中国白話小説の金字塔というべき作品であり、これを超える長編小説は今なお中国で書かれていないのではないか」という絶賛ぶりなのだが、三国志や水滸伝のような活劇的要素はなく、かつ非常に長い。松枝茂夫訳の岩波文庫版でも12巻に及ぶので、通読した人は多くないと思う(私も読破できたのは50歳を過ぎてからだった)。

それでも、中国で紅楼夢が愛読されているのは「紅楼夢を読めば政治が分かる」、つまり社会の中の関係性や序列がしっかり書き込まれているからだという。

登場人物には詩作をよく行う教養人も多いが、面子や駆け引きは重要であり、一族の実力者に気に入られようと奔走し、序列を乱すものには残酷に対応する。女たちはダメ亭主に足をすくわれ、身分を越えた恋は報われない。

また、これは「滅び」の物語でもある。賈一族の権力の背景には、皇族の庇護や経済的な特権が暗示されているが、終盤にそうした構造が崩壊し、一族が没落してゆくさまが描かれる。コネや特権でのし上がった人物が、政治的な環境の変化で瞬く間に失脚するのは今の中国でもよくあること。中国人にとって、紅楼夢は極めて現実的な物語なのだ。

中国では、特に女性との雑談で「紅楼夢の登場人物では誰が好きですか?」といった話題が出てくることがあるが、これは相手がどんな人間か見定めようという目的も含まれている。

井波さんは、日本で紅楼夢があまり読まれていないことを残念に思っていたようで、本書以外でも新聞の寄稿などいろいろなところでそれを強調しているが、実はご主人であり、やはり中国文学研究者の井波陵一氏が数年前に紅楼夢の新訳を出して読売文学賞を受賞している。紅楼夢は夫妻が生涯を懸けて取り組んできた課題でもあったのだ。

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『中国の五大小説(下)水滸伝・金瓶梅・紅楼夢』

井波律子 著  岩波新書

2009年発行 940円+税

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【本の選者】岩瀬 彰

NNA顧問。1955年東京生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業後、共同通信社に入社。香港支局、中国総局、アジア室編集長などを経て2015年にNNA代表取締役社長。20年3月より現職

※特集「アジアの本棚」は、アジア経済を観るNNAのフリー媒体「NNAカンパサール」2020年7月号<http://www.nna.jp/nnakanpasar/>から転載しています。


関連国・地域: 中国-全国日本
関連業種: 社会・事件

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