首相を務めた大物議員が、政権から退陣してもご意見番として政権に大きな影響力を与え続けるというケースは日本にもある。だが、自分が所属していた政党が選挙で不利になる、まるで野党党首のような言動を繰り返すとなると、言語道断ということになるのだろう。保守連合でオーストラリアの29代首相を務めた、マルコム・ターンブル氏のことだ。ターンブル氏のモリソン政権憎しが近年、あからさまに見えてはいた。だが、どれほど深いものだったかには気が付かなかった。
モリソン政権が敗れた先の選挙で、ターンブル元首相が果たした役割について書かれた「エゴ:マルコム・ターンブルと自由党の内戦(Ego:Malcom Turnbull and the Liberal Party's Civil War)」という本が最近発売された。先日、著者のアーロン・パトリック氏と会う約束をしていた。
しかし、オーストラリアン・ファイナンシャル・レビュー(AFR)紙の記者で、大柄で50代半ばの彼は、会うなり「残念だが、今日は何も話せなくなってしまった」と言うので面食らってしまった。既に同書は販売されてはいるが、議会職員へのレイプ事件などに関するセンシティブな記述があるため、出版差し止め請求が届いているらしい。その結果、メディアとの接触も裁判所に禁じられた、と言う。
だが、ターンブル元首相の選挙での暗躍の数々は既に公開情報なので、そのうちのいくつかを紹介していこう。
■自由党のスキャンダル報道すべてに関与
ターンブル氏が首相の座を追われたのは2018年8月。後を継いだモリソン首相(当時)に対し、ターンブル氏は当初好意的な見方をしていたが、ターンブル氏を引きずり下ろした下剋上劇に、モリソン氏が関わっていたと報じられると、手の平を返したように敵意を示すようになった。
以来、ターンブル氏はモリソン政権にダメージを与えるさまざまなスキャンダル情報を、メディアなどでリークするようになる。自ら率いていた自由党に関わるスキャンダル報道のすべてに、ターンブル氏は背後で関与してきた、という。
19年には、連邦議会内で議会職員がレイプされる事件が以前起きたことを、モリソン政権が隠ぺいしようとしていたことをターンブル氏が暴露した形になった。
また、当時のポーター司法長官が高校生時代に女性をレイプしたとされる事件、タッジ前教育相が秘書と不倫関係にあったとされる事件でも、ターンブル氏は水面下でのリークで暗躍したとみられている。結果的に、女性問題の扱いはモリソン政権にとって致命的問題になった。
またその年の選挙でターンブル氏は、宿敵だったアボット元首相のワリンガ選挙区に無所属で立候補したスキー競技メダリスト、ザリ・ステガル氏を資金援助し、アボット元首相を蹴落とすのに成功。その後も、反目する自由党議員の選挙区に立った無所属候補に多額の支援をしている。
今回(今年5月)の総選挙でも全く同じで、ターンブル氏は自由党候補者たちを横目に、「ティール(Teal)」と呼ばれる無所属候補を露骨に、時には秘密裡に、応援した(その事情は同書に詳しい)。
「ターンブルの呪い」は奏功し、自由党内の政敵は多くが姿を消した。反ターンブル派の急先鋒で、重鎮のエリック・アベッツ議員も、ティールに刺されて政治生命を絶たれた。
■「自由党史で特異な存在」
アーロン記者は「ターンブル氏はお気に入りの公共放送ABCとのインタビューでは常に、後継者であるモリソン氏やダットン氏(現党首)をよく非難する」と話す。
同記者によると、自由党の元党首で、党首から退いた後に自由党を攻撃した党首は他に3人いる。ジョン・ゴートン元首相(68~71年)、マルコム・フレーザー元首相(75~83年)、ジョン・ヒューソン党首(90~94年)だ。だが、「これほど自由党に甚大な打撃を与えた元党首はいない」という意味で、ターンブル氏は党史に刻まれるほどの特異な存在感を示すという。
ターンブル氏は、モリソン氏を「世間知らずな政治家」と見下していたようだ。そのため、「そのモリソン氏率いる政権が、19年の総選挙で予想外の勝利を収めたことは、ターンブル氏にとって許容できない屈辱だったはず」(アーロン記者)という。
同書には、興味深い例が書かれている。
コロナ禍でワクチン不足が懸念されていた20年末、労働党のラッド元首相がファイザー社の社長に電話し、オーストラリア向けの出荷を増やすよう私人として要請し、同意を得た。ラッド氏はその経緯をABCの記者に伝え、ABCは美談として大きく報道した。
ところが、ラッド元首相の自己宣伝的なストーリーを自由党批判に使ったのはターンブル氏だった。ターンブル氏はツイッターで、モリソン氏が電話しなかったことの嫌味を言うと共に、ラッド氏に感謝する、とモリソン氏に当てつけてみせた。これには2万7,000件もの「いいね!」が付き、モリソン首相のメンツは台無しとなった。
■資産は2億豪ドル
ターンブル氏の経歴は華やかなものだ。法廷弁護士から始まり、投資銀を運営した後、ゴールドマンサックス豪法人で社長も務めた元エリートバンカーだ。ターンブル氏はオーストラリア議会史上最もリッチな政治家とされ、その資産は2億豪ドル(約190億円)を軽く超すという。
だが同時に、自由党の破壊をもたらした元首相としても名を残すとしたら、何をかいわんやとも言えるだろう。【NNA豪州・西原哲也】
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