ハン・ジュノ 1976年、大阪府吹田市生まれ。両親が日本で仕事をしていたため、現地の韓国人学校に通い、中学2年生まで吹田市で暮らす。96年に名門大学の高麗大学に進学。在学中の読売新聞ソウル支局でのアルバイトをきっかけに、記者になろうと志す。大学卒業に単身日本に渡り、朝日新聞に入社。同社ソウル支局で10年働いた後、現在は亜洲経済新聞で活躍中。
新聞やニュースなどマスメディアの世界でも、日本と韓国は非常に関係が深い。それだけに、韓国メディアには「知日派」と呼ばれる記者が大勢いる。その中でも亜洲経済新聞の韓ジュノさんは、日韓の事情に特に精通した記者の1人だろう。
中学2年生まで日本で暮らしていたため、日本語はネーティブだ。帰国後、両親の出身地だった済州島で高校時代を過ごし、96年に名門の高麗大学に進学する。大学入学時には記者になるという考えはなかったが、読売新聞ソウル支局のアルバイト募集に応じたことが記者に興味を持つきっかけとなった。
■アルバイトで知った記者の世界
「最初は記事をスクラップし、重要なものがあれば報告する簡単なバイトだったが、ある時、上司から『通訳はできるか』と聞かれ、韓国に出張で来る日本人記者の通訳をするようになった。そこで初めて、記者の仕事の現場を見て、自分も記者になりたいと思うようになった」と話す。
それと同時に「記者になるなら日本でなりたい」と考えた。2002年、韓国で開かれた日韓共催のサッカーワールドカップ(W杯)関連の記者会見に通訳として参加。そこで、韓国メディアの記者を初めて目にするが、とてもショックを受けたという。
「韓国の記者の礼儀や質問がとても悪かった。記者になるなら、日本の新聞社で働こう」。韓さんは、同年の大学卒業後に日本に渡り、90日間の滞在期間が切れると一度韓国に戻ってから再入国を繰り返し、04年、ついに朝日新聞の入社試験に合格する。
朝日新聞ではソウル支局の特派員として活動。入社翌年の05年には東京大学で開かれた金大中(キム・デジュン)元大統領の講演の取材に参加し、インタビューの通訳を担う。
「金元大統領から『君は日本人か』と聞かれ、『韓国人だ』と答えると、『日本語がとてもうまいね』と言われた思い出があります。金元大統領は日本語が上手だから、通訳が合っているかとても緊張しました」と韓さんは振り返る。
■韓国メディアへの挑戦
14年に朝日新聞を退社し、亜洲経済新聞に籍を移す。「私は、記者生活は30年だと考えている。最初の10年が日本の新聞社だったので、次の10年は韓国のメディアで働いてみようと思った」という。
亜洲経済に入社するまで韓国のメディアの世界について、ほとんど知らなかった韓さん。まず、輪転印刷機のあるメディアとないメディアがあり、朝鮮日報など大手紙以外の大部分のメディアが輪転機を持っていないことに驚いた。
「亜洲経済は中央日報の輪転機を借りて紙面を仕上げている。そのため、亜洲経済の朝刊締め切りは午後7時と早いんです」と話す。そのため、韓国のメディアの多くは時間との勝負になり、短い取材時間で多くの記事を書かなければならないプレッシャーもあるという。
■徹底した「日本と比較」
IT・産業分野を7年手掛けた韓さんは、独自の心構えを持つ。韓国である出来事が起きた場合、日本ではどうなっているか、似たような事例を探すようにすることだ。
「その理由は、サムスン電子の李健煕(イ・ゴンヒ)元会長が生前、『日本で起きたことは10年後に韓国でも起きる』という話をしていたため。日本での出来事にも興味はあるが、それを韓国に代入するのがとても面白い。韓国の法律や企業は日本への依存度が高いので、日本の事例を参考にすることが何よりも大事だと思う」
今年1月から担当する金融分野も、韓国は日本との関わりが非常に深いと話す。例えば、新韓グループは株主の多くが在日韓国人で、日本支店が出世コースになっている。貯蓄銀行と呼ばれる都市銀行以外の金融機関は多くが日系の資本などだ。そのため、「日本との比較」の心構えが生きているという。
■最後の10年も楽しく
韓さんはまもなく、「記者生活30年」の最後の10年に差し掛かる。目標を聞くと、「仲の良い記者たちとオンラインの新聞社を立ち上げてみたい」と答えてくれた。実は、韓国には売りに出されている新聞社が多くあり、オンラインメディアは特にそこまで買収のハードルは高くないのだそうだ。
「残りの10年は、楽しく悔いのない記者生活をしたいですね」と語る韓さん。近い将来、韓さんが立ち上げた新しいメディアに出会えることに期待したい。(韓国編集部=清水岳志)
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