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NNA古参記者が見た25年 折り返し点の香港、その軌跡

香港はあす7月1日、英国から中国に返還されて25周年を迎える。「50年不変」とされた一国二制度の折り返し点でもある。過去四半世紀の間、香港はさまざまな試練に見舞われ、大きな変化を遂げてきた。返還直前の1997年3月に初めて着任してから通算3回にわたり香港駐在を経験してきた記者が、この25年間に起きた出来事を自身の体験を交えて振り返り、返還後の香港の歩みを回顧する。【安部田和宏】

返還25周年を祝うため、通りの上にたくさん飾られた中国国旗と香港区旗=20日、九龍地区・尖沙咀(新華社)

返還25周年を祝うため、通りの上にたくさん飾られた中国国旗と香港区旗=20日、九龍地区・尖沙咀(新華社)

英国統治最終日の97年6月30日深夜。私は香港島・中環(セントラル)のチャターロードにいた。現在は終審法院(最高裁)庁舎になっている立法評議会(議会)議事堂のバルコニーには、李柱銘(マーティン・リー)民主党主席(当時)ら民主派議員たちが陣取っていた。返還とともに立法評議会が解散され、中国主導で議員が人選された臨時立法会(暫定議会)に取って代わられることに民主派は抗議した。

広東語と英語で演説し、「民主万歳!」と叫ぶ李氏。その姿は、今も強く印象に残っている。同じ頃、「最後の香港総督」パッテン氏は英王室船ブリタニア号に乗り、ビクトリア湾から香港に別れを告げていた。

その数カ月後、私は銀行の支店に駆け込み、慌ただしく外貨預金口座を開いた。「米ドルとのペッグ制(当時は1米ドル=7.8HKドルの連動相場制)が崩壊し、香港ドルもタイ・バーツなどのように暴落するのでは」との不安が香港社会に広がっていたからだ。

香港は、返還翌日の97年7月2日に起きたタイ・バーツの変動相場制移行とその後の暴落に端を発したアジア通貨危機の直撃をもろに受けていた。香港ドルは同月中旬頃から激しい売り圧力に見舞われた。

■経済政策を転換

返還とともに発足した香港の董建華政権はこの危機に際し、「ペッグ制断固防衛」を宣言。香港金融管理局(HKMA)は外国為替市場介入と極端な高金利誘導で香港ドルの投機売りに対抗し、政府は通貨危機に伴う株価暴落に対処するため翌98年8月、外国為替基金の資金を株式・先物市場に投入して買い支えるという挙に出た。この株価維持政策(PKO)は、英国統治下で旧香港政庁が採用していた伝統的な「積極的不干渉主義」の経済政策に明らかに反する行為と言われた。私も、香港政府がこんなことをするとは想像さえしていなかった。

董政権はペッグ制の防衛には成功したが、高金利政策の代償はあまりに大きかった。これにより、不動産の高騰に代表される「返還バブル」はあっけなく崩壊。香港経済は98年、英国統治下では統計開始以来、一度もなかったマイナス成長に陥る。デフレは長期にわたった。

返還後間もなく起こったもう一つの大事件として、香港国際空港の大混乱がある。スリルある着陸で世界に知られた旧啓徳(カイタク)空港に代わる新たな空の表玄関として98年7月6日に開港したものの、初日からシステムダウンなど深刻なトラブルが各方面で続出。香港の命脈の一つ空運はまひ状態に陥り、確か、正常化には2カ月ほどかかった。

私も98年7月中旬に香港国際空港の惨状を現場で目の当たりにし、ため息をついた。出発ロビー両端のチェックインカウンターにまだ案内用モニターテレビが付いていないなど、素人目にもそのお粗末さは一目瞭然だったからだ。この空港が後に国際的にも高い評価を得ることになるとは、当時の様子からは想像できなかった。

■SARSで恩恵と摩擦

2003年には重症急性呼吸器症候群(SARS)禍が香港を襲う。中国本土から持ち込まれたSARSウイルスに香港市民が続々と感染し発症。299人の命が奪われ、経済も深刻な打撃を受けた。SARSをなかなか抑え込めない董政権に対する世論の批判も高まった。

中国中央政府(国務院)はSARSで傷付いた香港経済へのてこ入れ策として、本土住民の香港個人旅行を段階的に解禁していった。観光業界や小売業界などは「救世主」として本土客と人民元を大歓迎。その後、観光業の本土客依存は高まる一方となった。

私も当時、香港のあちこちで店頭などに張られた「人民元歓迎」の表示に目を丸くした。人民元が香港社会で「格下」の通貨とされていた時代が終わりを告げようとしていたのは明らかだった。香港ドルと人民元の対米ドル相場は06年末から07年初めにかけてついに逆転。香港ドルの方が人民元より安い時代に突入し、1990年代初頭は広東省で大歓迎された香港ドルが一転、同省で受け取り拒否に遭うようになった。

当初は歓迎された本土客だが、香港で粉ミルクなどを買いあさって本土で売りさばく「運び屋」の横行、子どもの香港永住権取得を目的とした香港での越境出産などに、香港市民の一部、特に若者は次第に反発を強めていった。11年頃からは反本土感情が若年層に急拡大。本土客を「イナゴ」と罵倒するなどのヘイトスピーチ事件がたびたび起きた。

■政治と社会に激震も

政治では03年、香港基本法(憲法に相当)第23条に基づく国家安全条例の制定をSARS流行下で強行しようとした董政権に多くの市民が猛反発。同年7月1日に50万人(主催者発表)の市民デモが行われ、条例制定は撤回に追い込まれた。董政権も05年、2期目途中での退陣を余儀なくされた。

12年には香港政府の「国民教育」導入政策に中高生らが激しく抗議。集会やデモが繰り返された。香港島・金鐘(アドミラルティー)の一角で行われた中高生と保護者中心の抗議集会を現場で取材し、底知れぬ若者のパワーに圧倒されたことを鮮明に思い出す。

当時の梁振英政権は中高生や保護者らの反発に抗し切れず、やむなく国民教育必修化を断念。一方で、自由な行政長官公選制などを求めた「セントラルを占拠せよ」運動が発展した14年の「雨傘運動」では、学生らが金鐘一帯を長期にわたり占拠したが、梁政権は最後まで要求を突っぱね続けた。

そして19年。経済界からも反対の声が上がった「逃亡犯条例」改正の強行に動いた林鄭月娥(キャリー・ラム)政権に市民が怒りを爆発させ、6月以降、香港は史上まれに見る大規模な反政府運動の嵐に襲われた。危機感を覚えた中国中央は翌20年6月、「香港国家安全維持法(国安法)」を制定し施行した。

■コロナ禍が追い打ち

20年からは新型コロナウイルス禍が香港に追い打ちを掛けた。特に21年暮れからのオミクロン株の感染爆発は大きな社会混乱を招き、本土や海外との往来再開は今も実現していない。

国安法や渡航規制を嫌気した人材流出が止まらず、香港の競争力低下が懸念される。ウィズコロナ政策に転じたシンガポールがビジネス・物流ハブ機能の復活強化に力を注ぐ中、同じ路線を歩めずにいる香港はどうなるのか。これからの四半世紀、香港が再び輝きを増していくことを願うばかりだ。


関連国・地域: 香港
関連業種: 医療・医薬品金融建設・不動産小売り・卸売りサービス観光マクロ・統計・その他経済政治社会・事件

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