第25回 新生「野村」誕生に寄与 吉沢徳安・野村国際 (香港) 社長


第25回 新生「野村」誕生に寄与 吉沢徳安・野村国際 (香港) 社長

1980年夏、東京・吉祥寺――。「夜が明けると、また悪夢の月曜日がやってくる……」。金曜の夜、狂喜に浮かれた野村証券独身寮の社員たちは、日曜の夕刻になると、水を打ったように静まり返る。証券営業マンは訪問先で、「野村」と切り出すなり、けんもほろろに追い返され、砂を噛むような理不尽さに打ちひしがれていた。新入社員の吉沢青年は日曜の夜、キリキリと痛む胃をこらえ、高額所得者住所リストをチェックする。入念な準備をすることが、日常の正気を保つ、唯一の手段だった――。

1956年、埼玉県川越市に生まれた。父方は戦前から村長や校長を務めた、地元の伝統ある名士の家系。母方は織物業で財を成した大物財界の娘。吉沢氏の家系はまさに、地域の「名」と「実」を兼ね備えた一族だった。

戦後の農地解放で土地を手放さざるを得なかった一族の悲哀を知る父は、「子孫に美田を残さず」が信条である。その信条は、吉沢少年と妹への教育熱心さとなって表れた。幼い頃からピアノを習い、クラシック音楽に親しみ、「上流階層」との付き合いが奨励された。

吉沢少年は、学習院の中等部に進む。大学まで受験もなく無難に進学できるはずだ。だが吉沢青年は高校進学時に、敢えて公立の川越高校を受け直した。吉沢氏は「この頃はいつも、満たされない『向上心』に飢えていました」と話す。

■生き馬の目を抜く業界で

大学進学先は、東京芸大の管弦楽科を希望した。高校時代、フルートの才能を評価されていたためだ。ところが、音楽で食べていけるわけがないと、こればかりは父親に猛烈に反対された。そこで成城大学に入る。成城大学では毎年、世界的指揮者の小沢征爾が指揮を振るう音楽式典がある。「そこでデビューしてやろう、そんな魂胆があったんです(笑)」。

新入生の吉沢青年は、オーケストラ部をのぞいたが、あいにく部室が閉まっている。だがこの時、試乗会を開いていた馬術部に勧誘され入部してしまった。これが実に面白い。音楽の成果は自分の努力に比例するが、馬術は自分と馬、そして調教者の3要素が揃って初めていい成果が出る。馬小屋に泊まり付きっきりで馬の世話をするが、馬に乗るのはわずか10分程度。それでも馬のバイオリズムの調整は、一筋縄ではいかない魅力がある。1年から選手に選ばれたという。

ところが、あまりに馬にハマったために授業はそっちのけだ。このままでは単位が足りない。大学当局からの警告が2度も届いた。吉沢氏は、無念の思いで馬術部を辞め、勉強に専念したという。

卒業後、吉沢氏は野村証券に入った。野村の人事部の話が一番興味深かったためという。「だけど裏の理由は、人事部の女の子が奇麗だったんです。7割が社内結婚だと聞いていたんで(笑)」――。

その頃、「新入社員は3年で半分になる」、「実態はノルマ証券だ」、「鬼の支店長がいる」、穏やかならぬ噂が周囲に飛び交っていた。3カ月で辞めるかもしれない、そう思っていた。案の定、仕事は苛酷だった。吉祥寺支店に配属された吉沢青年は、名刺と黒い鞄を持って、高額所得者の住所を一軒一軒営業で回る。証券営業マンというだけで罵倒され、人格を否定されることもある。ドアのベルを押す指が重い。だが、課せられたノルマがある。契約が一件も取れないかもしれないし、株式市場が明日急落するかもしれない。押し潰されそうな不安の中で、吉沢青年は正気を保つため、苦手だったジョギングを始め、英字誌で業界情報をむさぼるように求めた。そうしていつのまにか、生き馬の目を抜くこの業界で生きてゆく覚悟を決めていた。

吉沢青年はその後、企業留学生に選ばれて英国でMBAを取得。香港、シドニーを経て、東京の事業法人部に配属され、M&Aやファイナンスを扱った。

■一族の家訓

そして1997年、日本中を揺るがす大事件が発覚した。野村証券が総会屋の親族企業に利益供与していた「第2の不祥事」だ。これに伴い、吉沢氏は社内改革委員会のチェアマンを任され、数々の業務改革プログラムを取りまとめた。さまざまな改革を経て、野村証券は若く、フレキシブルな組織に生まれ変わった。

ひとりの部長が持つ権限が大きく、若手に仕事を任せるのが新しい「ノムラ」のカルチャーだ。吉沢氏は新しいプログラムに沿って、不動産投資銀行部、自己資金投資業務のプリンシパル・ファイナンス、シニアローンなどを手掛ける会社設立に関与したという。

今年4月から、吉沢氏は満47歳の若さで本社役員に就任した。思い返せば、入社以来、分岐点ではいつも人に救われ、引き立てられてきたことに気付く。吉沢氏は「今回も、あいつならせめて会社を変な方向にだけは導かないと思われたんじゃないかなあ」と苦笑する。

父親が他界した際、吉沢氏は親戚のひとりから、一族に「家訓」があることを初めて告げられた。その家訓とは、「株と不動産には手を出すな、というものでした(笑)」――。(香港編集部・西原哲也)

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