第51回 外高橋寄港第1号を実現 鈴木修・商船三井アジア社長


第51回 外高橋寄港第1号を実現 鈴木修・商船三井アジア社長

1994年、上海外高橋保税区――。こんな何もないへき地の港と寄港契約をして、果たして顧客はついてきてくれるのだろうか。上海事業立ち上げを任された鈴木氏は、その晩も不安で寝付けなかった。上海の港湾といえば、浦西がメーンである。市港務局が、開発したばかりの外高橋保税区に商船三井をまず強引に引き込もうという狙いは明らかだ。だが物は考えようだ。この際、逆手を取って港務局を利用してやるのも手ではないか――鈴木氏はそう気付いた。

1949年に東京墨田区に生まれ、2人兄弟の次男として育った。戦後間もないころの墨田区は、個人経営の町工場が至る所に軒を連ねていた。鈴木少年は比較的体が弱く、母親にいつも寄り添う気が小さな性分だったという。

鈴木青年は浪人後、慶応大に進む。当時、学生紛争の嵐はキャンパスにも吹き荒れており、長期に渡り授業は閉鎖されていた。「ノンポリは悪」という考えだった鈴木青年は、ヘルメットこそかぶらなかったものの、クラス討論会には何度も出席した。だが、学生活動家の声高なアジテーションを横目に、社会の矛盾と将来への不安に、押し潰されそうな毎日だった。

■運賃決定会議に出席

そして就職するべき時がやってきた。ヘルメットをかぶっていた学生活動家たちの多くは「子ども遊びはもう終わり」とでも言うかのように、長髪を切り落とし、スーツに着替え、会社まわりをし始めた。忸怩たるものを抱えながら、鈴木青年も就職活動に飲み込まれていった。

当時の流行語だった「モーレツ」なイメージが強かった商社マンや銀行員は、とてもじゃないが自分の肌に合わない。リクルートブックを眺めていると、巨大なタンカーが雄大な海を航行している写真を載せている会社がある。タンカーのようにゆったりと、泰然としたイメージが気に入った。それが、大阪商船と三井船舶が合併して間もない、大阪商船三井だった。

最初に大阪支店に配属されたが、人間関係がやっかいな部署だった。対等合併後まだ10年も経っていなかったため、三井船舶と大阪商船出身の社員が、それぞれ歴然とした派閥を作り上げ、昼食さえ派閥ごとに取っていたという。

鈴木氏は79年から、コンテナ船のオペレーションをまかなう定航部に配属。北米航路を任された。

海運は伝統的に、一定条件の下で「運賃カルテル」が認められている特別な業界といえる。国際的船会社の約13社が運賃同盟を組み、毎週海運レートを運賃決定会議で決め、運賃率表を作る。鈴木氏は84年からロサンゼルスに赴任し、米国出し貨物のプライシングに携わった。

鈴木氏がロサンゼルスに渡った80年代半ば頃から、プラザ合意で円高の進行が加速。さらに、価格カルテルの規制緩和も進行していく。これに伴い、日本の海運会社は競争力を削ぎ落とされ、逆に長栄海運や韓進海運といった台湾、韓国系海運会社が台頭していった。運賃で競争できない以上、日系はコスト体質を改善するしか生き残る道はなかった。

北米航路が長かった鈴木氏は、89年から、今度は香港でアジア出し貨物のプライシングに携わる。中国航路の拡大が注目され始めたのもその頃だった。

90年代初頭になっても、日系船会社は軒並み、中国にはほとんど拠点を持っていなかった。商船三井もそれまで中国物流大手シノトランスを総代理店にしており、駐在員事務所ライセンスも天津に限られていた。商船三井はそこで、上海事務所設立など、華東地域を中心とした中国拠点設立の全てを鈴木氏に託した。

■異人種に対する理解

上海市は90年初頭、黄浦江の東に広大な浦東新区を開発し、その中に「上海外高橋保税区」、その隣には新たなコンテナターミナルを設立した。この保税区は中国初で最大、そして最高の開放度の自由貿易区とされた。

ところがこれが大変な辺ぴな場所で、「本船を寄港させても不便だと顧客にそっぽを向かれるのではないか」という不安がどうしても拭えなかった。一か八かだったが、万難を排し、国際コンテナ船会社として第1号の進出となった。

だがその不安は、杞憂に過ぎなかった。その後の外高橋の発展ぶりは、目を見張るほどだったからである。外高橋には現在までに世界44カ国・地域から企業が進出し、 総投資額は30億米ドル以上に上る。商船三井の貨物扱高はゼロから、数年間で月1,500TEUまで膨らみ、売上高も月150万米ドルまで伸びたという。今でも商船三井は外高橋で、寄港第1号として歓迎される。鈴木氏が、商船三井の上海基盤を築いたといえる。

米国や中国での生活を経て、異人種に対する理解が深まった。高校の時に一番親しくした友人が在日韓国人だったことから、人種に対する偏見は元々薄い。「人種に関わらず、さまざまな人々と仲良くするのは人生で最も大切なことです」。

香港や中国で、単身赴任の生活が続いている。「単身赴任は若い人には勧められません。帰国したら、家庭で居る場所がなくなりますからね(苦笑)」。(香港編集部・西原哲也)

NNAからのご案内

出版物

SNSアカウント

各種ログイン