第50回 NTTの海外事業拡大に寄与、高橋昭二・NTTコムアジア社長


第50回 NTTの海外事業拡大に寄与、高橋昭二・NTTコムアジア社長

1992年7月、タイ――。NTT 国際投資プロジェクトの高橋課長がハッと気付くと、ホテルの外はもう薄明るくなっていた。タイの通信大手ジャスミン・インターナショナルと共同で計画した同国初の全国規模のページャー事業の入札締め切り日だ。落札すれば、100万回線事業を推進するジャスミンから戦略的パートナーに選ばれる布石になるのは間違いない。NTTにとっても、初の海外プロジェクトだ。――ところが、提出締め切りわずか2時間前に、思いがけないことが待っていた。

1956年に東京の池袋に生まれ、2人兄弟の次男として育った。外で活発に遊ぶ少年だったが、周囲を困らせるようには羽目を外さない。教師や親の言うことに素直に従う「いい子」だった。「奔放に振る舞う兄を眺め育ち、どういう状況で叱られるのかを要領良く察知していましたから(笑)」。

 高橋青年は、日大付属系高校の統一試験で全国2位になり、総長賞をもらいそのまま日大理工学部の機械工学科に進んだ。航空宇宙工学を専攻し、航空研究会でラジコン飛行機に夢中になり、航空会社か、重工業関連会社で飛行機に関わりたいと願った。

■光ファイバーを研究

ところが就職活動で、厳しい現実に突き当たる。私立大では、そうした業界は困難だった。本来、公立か私立かは本人の資質には関係ないはずだ。悶々としていたところ、当時の電電公社から、十数年ぶりに日大機械工学科に募集枠が来た。高橋青年はこの希少枠を薦められ、79年に入社を果たした。活躍の場は一転、「飛行機」から「電気通信」に移る。

高橋氏はまず、現場実習として岩手県水沢市の電話局に放り投げられた。電柱の穴掘りなどの労は厭わなかったが「労組が強い電話局で、『体制側の人間だ』と、独身寮にさえ入れなかったのが困りました(笑)」。

その後、電話回線インフラの「線路部門」を任される。筑波市にある建設技術開発センターで、光ファイバーをいかに効率的に敷設するかの技術開発を担当。光ファイバーは、メタリックと異なり、接続ポイントを増やすほどロスが大きく、引っ張りに弱いという特徴がある。

高橋氏は、それを踏まえて「光ファイバー・ケーブル牽引機」を開発し、仕様書を書き上げた。当時は全国基幹ネットワークを光ファイバーに置き換える計画を遂行していた時期であり、この牽引機は全国で活躍し、今でも使用されているという。

その後、事業効率化を推進するオペレーションシステムの開発を担当。この時に、米通信会社とNTTのエンジニア交流プログラムで米国に渡米。フレックス制や社内LANが整備された、当時としては新進的なシステムや自由な社風に触れ、カルチャーショックを受けて帰国した。

国際投資プロジェクトに移ったのはそれからだ。国内で盤石の基盤を築いてきたNTTは90年初頭から、海外に目を向け始めていた。その第一弾となったのが、タイ電電公社(TOT)が、民間と組んで国内に基本電話100万回線を敷設する巨大プロジェクトである。これに参入するには、事業の中核を担っていたジャスミンとの関係を強化するのが得策であるはずだ。同時期に全国規模ページャー事業の入札案件があり、ジャスミンと共にこれを取れば、100万回線プロジェクトでも戦略的パートナーに選ばれるとの算段だ。

ページャー事業のプロジェクトマネージャーを任された高橋氏は毎晩のように徹夜し、技術仕様ドキュメントや投資・財務計画書を締め切り日の明け方に、ついにまとめあげた。かなりの自信作だ。ところが、2時間前に本社から突然、ある事情で札入れストップがかかった。マラソンのゴール直前で、ゴールを見失ってしまった。

■突然の撤退

そんなバカな!――高橋氏は全身の力が抜けてへたり込んでしまい、その後も数週間にわたり、悔し涙が止まらなかった。「どんなに小さくても、一国一城の主として、自分が決断できる仕事をしたい」――この時、そう痛切に感じたという。

ジャスミンは、タイ政府から100万回線プロジェクトのライセンスと25年の事業運営権を取得し、事業法人「TT&T」を設立したが、NTTはページャー事業入札から突然撤退したため、戦略的パートナーに選定されるためには、他の外資企業とスタートから競わざるを得なくなった。高橋氏は再度奮起し、今度は戦略的パートナー契約を勝ち取り、NTTはTT&Tの20%を取得した。初めて海外事業を手中にした瞬間だった。高橋氏はその後も、ベトナムやシンガポールで、同じくゼロからの事業立ち上げを経験。NTTの海外事業拡大に寄与してきた。NTTコムアジアに来たのはそれからである。

仕事面で感じているのは、顧客の要望にどれだけ短時間に応じられるかという「タイムファクター」と、どう柔軟にサービス提案していくかという「フレキシビリティー」の必要性だという。

香港に来てから、「謙虚さ」について再認識している。自分が現在あるのは、やはり会社や家族が支えてくれたおかげである。「現地従業員をうまく演出し、彼らが最大限活躍できる舞台を提供してあげたい。自分は『助演男優賞』を目指したいですね」。(香港編集部・西原哲也)

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