第49回 乱世に生きる強さ 大川栄二・双日香港社長兼中国副総代表


第49回 乱世に生きる強さ 大川栄二・双日香港社長兼中国副総代表

1990年2月26日、東京――。株とファンドトラスト、債券を一括して運用していた日商岩井の大川氏は、ディーリングモニターを見つめて凍りついた。年初の大発会以来、不振が続いていた日経平均株価はその日、3万4,000円台を割り込み、たった1日で約5%も下落。87年10月のブラックマンデー以来史上2番目の下げ幅を記録した。つれて国債価格も暴落し、金利は暴騰していた。「このままでは膨大な焦げ付きが出る」――。汗は額以上に、背中に流れていた。

1947年に生まれ、神奈川県小田原市に男ばかり3人兄弟の次男として育った。小田原市は、豊かな自然と温暖な気候を背景に、北村透谷や尾崎一雄など明治以降多くの作家にゆかりがあり、近代文学の土壌を培った地である。誇り高き風土の中で、大川少年は運動や遊び、勉強も活発にこなす。地域の模範生ともいえた。

中学2年になった頃だった。サラリーマンをしていた父が急病を患い、ついに他界してしまう。一家の大黒柱が急にいなくなる。思春期の少年にとっては、衝撃的な出来事だった。そのためかつて教師をやっていた母が、家で塾を開いて家計を支えることになった。家では他の子どもたちを教え、そして、女手ひとつで自分の息子3人を大学に入れた。

■日米2回の暴落

奨学金を受けて67年に横浜国立大に入ったものの、学生運動の真最中で大学は荒れていた。大川青年も、ただ傍観していたわけではなかった。社会への反発心や、社会を変革する意欲を、絶えず胸に抱いていた。

学内の大半の学生と同じく、運動には積極的に関わっていったが、左翼運動に本格的にのめり込むことは、どうしてもできなかった。大川氏は話す。「心のどこかに、母に心配かけることへの不安があったのかもしれません」。

卒業後の就職先については、全く希望はなかった。だが大川青年は、当時のめり込んでいたマルクス経済の影響で「労務管理」という言葉を毛嫌いし、これにできるだけ離れたイメージの企業として、日商岩井を選んだ。

1971年に入社し、財務部に配属された。4年後にはシドニーに転勤になり、鉄鋼、物資の国内輸入や、羊毛、石炭、非鉄金属などの日本への輸出に関わる事業決算書を作る。帰宅が深夜になるなど、毎日奴隷のように使われたそうだ。

本社の経理部に戻り財務テクニックを学んだ後、米国のポートランドに2年半駐在。そして87年にニューヨークへと渡り歩いた。大川氏はその直後、歴史に刻まれるニュースに飲み込まれることになる。87年10月19日のブラックマンデーだ。

米国では85年のプラザ合意以来、ドルが十分に下げ尽くしたとの判断から、金融引き締めが行われていた。だがその日、ニューヨーク株式市場が暴落し、東京、香港、ロンドンの世界主要市場で投げ売りとなる混乱となった。この1日だけで1兆米ドルを超す金融資産が消えたとまで言われた。

日商岩井も例外ではなかった。大川氏は財テク部門のディーラーとして、株や債券のファンドを仕込んでいたが、それが軒並み含み損に変わってしまったという。

89年に帰国した大川氏はさらに、今度は90年の東証でのバブル崩壊にもディーラーとして遭遇することになってしまった。日を追うにつれ、プラスの資産は大きく目減りしていくが、自分ではどうすることもできない。

「株式相場」という得体の知れない生き物は、丸々と太った福の神の姿をしながら、ある時一瞬にして、夜叉にその姿を変える。「予兆は確かにありました。転換点をいかに見抜くか。自分は『逆に張れる相場師』ではないと思い知らされました」――。

■海千山千の金融界

大川氏は92年に再び渡米。今度は相場ではなく、トレジャラーとして投資銀部門を作り、リース会社の買収や動産担保の融資会社を立ち上げた。

海千山千の金融界をくぐり抜けてきた経験から、「乱世に生きる強さ」を培った。失意にあって泰然とし、得意にあっても端然とする。「結果は淡々と受け止めるということです」。

今年4月、ニチメンとの合併による「双日」が誕生した。香港でも、合成樹脂に強いニチメンと、電子機器、木材、船舶に強い日商岩井の相乗効果が出ると期待されている。

大川氏は、オーストラリアにいた頃の一般的な日本人商社マンの認識を今でも思い出す。「日本の資源を確保している」という自負、「ビジネスでの日本代表として駐在している」という誇り――が確かにあった。

日本の商社の中では、上位5社との差が開いた感がある。「いいえ、マラソンで言うとまだ20キロ時点です。35キロくらいが勝負です」――。(香港編集部・西原哲也)

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