第48回 「より良く生きる」教育環境、馬岡孝行・ベネッセ香港社長


第48回 「より良く生きる」教育環境、馬岡孝行・ベネッセ香港社長

1986年、三重県合歓の郷――。福武書店(当時)の社員旅行が盛り上がっていた。弁当の中身まで工夫した緻密なプランと、大胆な行動計画の詰まった旅行プログラムは、社員旅行の実行委員長である馬岡氏が練り上げたものだ。高校以来、皆を導く役回りはお手のものだ。宴会をテキパキと仕切り、大いに盛り上げながら、それでいて脇役にも徹している。「あいつは一体だれだ」――。宴会の席上、ある人物が馬岡氏を静かに見つめていた。

1960年、岐阜市に長男として生まれ、小学校入学を前に名古屋に引っ越した。だが相変わらず、父は岐阜市にある会社まで遠距離通勤していた。

当時は不思議だとも思わなかったが、名古屋にわざわざ引っ越したのは、父が馬岡少年ら息子たちのために、より良い教育環境を与えようとの配慮からだったと、後に知ることになる。学歴を持たず社会で辛酸を舐めた父が、せめて息子たちに立派な大学教育を受けさせたいという思いから、有名私立校のある名古屋に居を移したのだった。

小学生の頃、家族で旅行すると、その後必ず、その地が社会科の教科書に登場した。父が事前に教科書を調べ、旅行先を決めていたのだった。決して裕福ではなかったが、両親は息子たちにひもじい思いをついぞ抱かせることはなかったという。

■観賞映画は4年で約千本

高校ではリーダー格で、正義感も強く、生徒会長を務めるなど、積極的な青年だった。だが名古屋大に入ると、全く異なる生活が待っていた。日本全国から集まる学生たちと親しくなるうちに、自分の文化的教養の薄さと実利主義的な生き方に気が付いた。そうして、毎朝自宅を出ると映画館に直行するのが日課となった。観賞映画数は1年間で300本以上、4年間では約1,000本に上った。「一時は映画監督を志したほど」だったという。

人の心の襞に響く文化や活動に魅せられた馬岡青年は、総合文化産業を志向していた福武書店に入る。だが編集・製作者の道を志望していたにもかかわらず、仕事は名古屋エリアの書店や学校への営業ばかりだった。

そんなある日、毎年恒例の社員旅行の実行委員長に、馬岡氏が選ばれた。社員旅行にはゲストとして、福武總一郎社長(現会長)を招いた。旅行は大成功だった。その翌日、馬岡氏がなぜか支社長室に呼ばれた。もしかして、失礼なことでもしたのだろうか……。だが社長の言葉は意外なものだった。「君、わが社の海外戦略に興味はないか」――。

馬岡氏にとっては、1泊2日の社員旅行が、一大転機だったといえる。社員旅行を仕切った手腕を見込まれ、社長直属で新設した国際部メンバーに抜擢されたからである。馬岡氏の活躍は事実上、この時から始まる。幼児教育誌「こどもちゃれんじ」の台湾版と米国版を出そうと、1987年にまず台湾の現地調査を開始した。

台湾で幼児向け雑誌を日系企業が中国語で発行するなど、前代未聞の事業だ。そこで戦略を練るうち、日本式のダイレクトメール営業は通用しないことがわかり、独自のテレマーケティングを開発した。人海戦術で電話攻勢をかけていく。これが、現在では300人を超す一大電話組織に発展している。

■年商30億円に成長

そして1989年4月。日本での創刊からわずか1年で、「しまじろう」キャラクターは台湾に上陸した。「感無量でした。創刊時の購読者は1万5801人。今でも忘れもしません」。その後も契約者数は順調に伸び、15年後の現在では18万人、年商は約30億円に拡大した。当初1種類だった雑誌も、現在では幼児から小学校3年まで8種類に増えている。

馬岡氏は、広東省、北京の駐在を経て、香港に現地法人ができたのに合わせてやってきた。香港現法の設立は、付録・玩具類を中心に集中調達拠点となることが目的だ。だがそのほかに、中国本土事業の立案も任されている。

馬岡氏は台湾での成功について「日本のコンテンツを押し付けず、独自のマーケティングノウハウを展開できたのが勝因」と分析している。日本版をそのまま中国語に訳しただけでは受け入れられるはずがない。いかに台湾の顧客ニーズを取り入れるか、がカギだったという。

社名が「ベネッセ」となった背景には「よりよく生きる」との理念がある。子どもだけでなく、主婦や高齢者向けなどベネッセの事業は極めて多彩だ。だが一方で、そうした豊富な教材はなくても、馬岡氏自身が育ったように、家庭は健全な環境を作れるのでは?

「志を高く持つのなら、富裕な家庭環境や時代は関係ないでしょう。でも、よりよく生きるよう子どもの選択肢を増やしてあげる。それもきっと、心の襞に響くことにつながりますから」。(香港編集部・西原哲也)

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