第44回 アフリカと西洋と東洋と 小濱勝一・三洋電機(香港)社長


第44回 アフリカと西洋と東洋と 小濱勝一・三洋電機(香港)社長

1969年春、ケニア――。ナイロビ空港に降り立った小濱氏が、目の前に広がる光景にあっけにとられていた。高度に整備されたモダンな空港、誇り高く洗練された人々、清潔な街並み、安全な治安。首都のナイロビは、自分が務めていた大阪の守口市と比べても歴然とした違いのある大都市だった。「原住民族」、「非文明社会」――アフリカのステレオタイプなイメージを抱えていた小濱青年には、自分の目で確かめることの大切さが身に染みた。

1944年に熊本で生まれ、直後に長崎県大村市に移った。大村市はキリシタン大名の大村純忠が統治した城下町だが、東洋一を誇る第21海軍航空廠を持ち、軍都として栄えた町でもある。海軍の軍人だった父が、小濱少年ら家族とともにこの地に根を下ろした。

小濱少年は、周囲の子どもたちを率いる典型的なガキ大将だった。その性分が高じてか、高校に入っても教師の言葉を素直に聞くというタイプではなかったようだ。

江戸時代、海外に唯一開かれていた出島を持つ長崎という土地柄、大村市内にも異国文化を色濃く残す施設や文化が残っていた。これが、小濱青年を刺激した。将来は商社に入り、海外でのびのびと仕事をするのだ、そう思っていた。

■「サンヨー」は「ラジオ」

その後入った長崎大の経済学部では、野球部に所属し、キャプテンとして昼夜を問わず練習に明け暮れた。「『教室では決して小濱を見ないのに、グラウンドに行けば必ずいる』と言われた」そうだ。

商社を目指していた小濱氏だったが、ひょんなことから三洋電機に入社が決まってしまった。大学の先輩がほとんどいないことも、自由感を謳歌できそうに思われた。三洋電機は、貿易事業については、全商品を子会社の三洋電機貿易(株)に委託、窓口を一本化していた。小濱氏は希望通り、この貿易部門に配属された。

ナイロビ転勤となったのは、そのわずか1年後である。英国の植民地だったケニアが63年に独立を果たしてから、まだ6年しか経っていなかった。

ナイロビは当時、既に100万人の人口を抱える大都市で、挙国一致の体制が整っていた。初代のジョモ・ケニヤッタ大統領は必ず、「ハランベー!(皆で力を合わせよ!)」の合言葉で演説を締める。ケニア国民は、自分たちの国を手に入れた誇りに満ち、そして親しみやすい。ケニアでは「サンヨー」という社名が、「ラジオ」の代名詞になるほど国民に親しまれていた。

小濱氏はその後、米ニュージャージーにある米国サンヨーを経て、カナダのケベック州モントリオールに転勤する。ここで、この都市の未来を揺るがす政治変革に遭遇する。フランス語を話す住民が80%を占めていたこの州で、独立を目指していたケベック党が政権を取ったためだ。「フランコナイズ政策」は、あらゆる方面にまで行き渡った。100人以上の従業員を抱える企業幹部は、フランス語の習得が必須となった。当然、小濱氏もフランス語を毎日「強制的に」学ばされた。

小濱氏は帰国後の82年、今度は英国のローエストフトに赴任する。三洋は当時から欧州向けに製品を卸していたが、日本国内のような多彩な商品を卸せないのが欠点だ。そこで、英国にあるオランダ家電大手のフィリップスが持っていた工場を買い取り、カラーテレビ工場を立ち上げる計画が持ち上がった。その立ち上げに関わったのが小濱氏だった。

■絶えず最新の商品を

ちょうどその頃、故ダイアナ妃がチャールズ皇太子との結婚を1週間後に控え、世界中からマスコミが英国に集まっていた。カラーテレビ生産は、国民の王室ゴシップの関心と並行して、拡大の一途をたどった。三洋も7年間で年間50万台まで伸びたという。

米国、カナダ、英国と合計20年以上の間、西洋人のメンタリティに浸りきった小濱氏が、中国担当になったのは96年である。

中国のビジネス慣習は、西洋のそれと対極にあると言っても過言ではなかった。「時間は守らない、地縁血縁は重視する――最初はすべてが驚きでした」。小濱氏はそれでも、中国式慣習に順応しようと努め、「酒」が効果的であることを学んだようだ。

また中国でのビジネスで成功しようと思ったら、市場をなめてはいけない。「中国で売れる商品を出すには、日本と同じ最新の商品を投入しなければ、ディーラーや消費者にすぐ見破られます」。海外生活が約30年と長期に及ぶ小濱氏だが、どこにいてもその地の文化や歴史、人間性を尊重することが重要だと痛感するという。

英国で育ち、西洋的メンタリティの身に付いた娘たちを持つ。「いつまでも親離れしない日本の男性が、大変頼りなく見えるらしいですわ(笑)」――。(香港編集部・西原哲也)

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