第42回 身を呈した営業戦略 山本克巳・日立アジア社長


第42回 身を呈した営業戦略 山本克巳・日立アジア社長

1971年4月、茨城県日立市――。入社式に臨む山本青年が、絶句した。「とんでもない会社に入ってしまった……」。空前の好景気を受け、日立は大学新卒者だけで1,500人も採用する超マンモス企業だった。品川から会社貸し切りの列車に押し込められ、入社式が行われる日立市に一斉に向かう。これからこの大人数と競争するとは。山本青年は途方に暮れながら、常磐線から見える太平洋の景色を見つめていた。

1948年に北海道で生まれ、銀行員だった父の影響で引っ越しを繰り返し、物心が付くころに大阪の住吉区に移った。目立たない少年だったが、負けず嫌いは人一倍だった。

中学1年の春、山本少年は父の転勤でロンドンに住むことになった。12歳の少年にとっては、生まれて初めて見る西洋の社会は、見るもの聞くものが驚きの連続だった。水洗トイレを見たのも初めてだったという。ロンドン在住の日本人も多くなく、当然日本人学校もない。地元の私立校に転入したが、英語がさっぱりわからない。

これでは授業にも付いていけないと、まず幼稚園クラスに入れてもらい、2~3カ月おきに進級していった。「必死に聞いていると、次第にわかるようになるものなんですねえ」。一生懸命やればなんとかなるんだなという自信が芽生え始めた。子ども心に自分は日本人なのだという強い意識も植え付けられたという。2年間住んだロンドンでの生活は、山本氏の人格形成にとって重要な原体験といえた。

■エレベーターの営業マンに

日本に帰ると、山本青年は確かに、ポジティブに変わっていた。慶応大商学部で就職活動する際、父のように転勤を繰り返すのは嫌だと銀行を避け、メーカーを選んだ。それが、超マンモス企業の日立製作所だった。

日立の重電営業部門に配属され、エレベーター営業を担当したが、懸念していた同期入社間の競争よりも、厳しかったのは上司や顧客だった。

新規建築ビルを探しては建設会社に何度も頭を下げに回る。エレベーター作図の手伝いもさせられ、「ヒモ」を付け、あらゆる手段を駆使して1件1件の注文をもぎ取っていく「泥臭い」仕事だ。新人の頃は毎日のように上司や顧客からどなられたという。

それから苦節10年。山本氏は腕のいいエレベーター営業マンになっていた。ところがその頃、上司に呼ばれて行ってみると「お前はクビだ」。新グループを立ち上げるからそちらに行けという。宇宙開発事業団などを相手に、ランドサット宇宙画像処理機などの特殊機器の営業を担当した。さらにその後、他社コンピューターの日立製へのリプレースを請け負う開拓営業部隊に異動。そこでまた苦節7年。売り上げゼロだった新規グループを、部にまで昇格させたという。

それから上司に呼ばれて行くと、「また『クビだ』」。今度は業績の低迷していた横浜支社の重電機部隊を立て直せという命令が下された。

山本氏はここで、まさに猛烈に働いた。業績を回復させるには、何よりもまず、注文を取らなければ話にならない。重電機の単品を受注するだけではダメだ。あれもこれもうちでやらせてくれと頭を下げ、最終的に「設備工事全体」を受注するという営業手法を展開した。

■「夕顔作戦」

山本氏はその際、自分自身が率先して注文を取ってくる姿を部下に見せた。そこで独自の営業戦略を考案。そのひとつが「4時から作戦」だ。あと1時間で就業時間は終わりだという時間から、本当の営業が始まる。「夕顔作戦」もある。特約店の営業マンは外回りが多く、なかなか捕まらない。そこで顧客事務所で彼らの帰りをビールと寿司を用意して待つ。帰社した際に「ごくろうさま」と、夕方に顔を合わせてなごませる戦略だ。何が何でも注文を奪い取ってくるわけだ。

地上げにも関わったことがある。「上司には、物を売れといった覚えはあるが、土地を売れと言った覚えはないと怒られました(笑)」。

また部下にも目を光らせる。「ふぞろいでもいいが、腐ったリンゴを置いておいてはダメ。それを見抜くのも役目なんです」。そうした厳しい態度ながら、業績は確実に伸ばしてきた。横浜支社の副支社長になるころには、かつて25億円だった月間売り上げが40億円まで伸びていた。

ある日、上司に呼ばれて言ってみると、またクビだった。「同じ港町だからいいだろう」と、今度は香港に転勤に。中国全体を統括する責任者に抜擢された。「もしも海外で通用するようだったら、そのまま居続けよ」という本社の判断だった。

山本氏は即座に上司に尋ねたそうだ。もしも通用しなかったら?―――「『クビだよ』と言われました(笑)」。(香港編集部・西原哲也)

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