第41回 「封印」は華やかに 荒井敏明・東京三菱銀行香港総支配人

1976年10月、某社集団面接。「日本人は外国人から『信じるものは何か』とよく聞かれる。あなたは何と答えるか」――。面接員が、居並ぶ大学生に難問をぶつけてきた。荒井青年は一考し、こう答えた。「私は宇宙の意志を信じます」。面接員たちは思わず身を乗り出した。「それはどういうことかね」。荒井青年は四行詩を暗誦してみせた。
肉体は、溶けて宇宙に変わる
宇宙は、溶けてまばゆい光に変わる
光は、溶けて静寂の音に変わる
音は、無限の歓喜に抱かれる
「これが宇宙の意志です」。面接会場は、水を打ったように静まり返った。
1954年に横浜で生まれ、6歳で浜松市に引っ越した。荒井氏は高校卒業までの約12年間、浜松文化にどっぷり浸かることになった。
浜松は、ホンダの創業者である本田宗一郎をはじめ、多士済々の企業人を排出した地である。世界的企業人の気風が地域に浸透し、モータースポーツに対する熱意が高かった。荒井少年はリモコンのレーシングカー遊びに夢中になり、クラブのチャンピオンになったこともあったという。
中学・高校になると、「若大将シリーズ」やビートルズに影響されて、ギターを習い始める。バンドを組んで演奏しているうちに、次第に本格化していき、ミュージシャンになることを真剣に考え始めた。
■危険さと陶酔感
一橋大の商学部に入学しても、考えは変わらなかった。荒井青年にとっては幸か不幸か、入学しても学費値上げ反対闘争で半年間も授業が実施されない。その退屈を払拭するかのように、大学生活は覇気有り余るほど精力的に活動した。チリチリにした髪を腰まで伸ばし、個性を誇示した。
ロックバンドを組織し、各地でコンサートを開催した。舞台に呼ばれて演奏すると、ワンステージで当時10万円。それを3回もこなせば、軽く小遣いは稼げた。コンテストで優勝したこともあったという。このほか、大学の自動車部に所属し、オフロードのレーシングラリーにも熱をあげた。
崖を横目に山中を駆け回る危険なカーレースと、狂乱狂舞の中で陶酔感に浸るハードロック――。学生生活は、毎日が興奮にまみれた生活といえた。だが一方で、遊びばかりではなかったのが荒井氏の現実的一面である。「何か資格でも取っておこう」と、簿記検定の1級を取得。会計学の勉強も怠らなかったという。
大学5年の秋、卒業が見え始めると荒井青年は「カタギになろう」と決心した。夜型で「ヤクザな」生活に、いささか嫌気が差し始めた時期でもあった。腰まであった髪を、就職活動前日にバッサリと切り、面接用に七三分けにした。
ラリーで培った度胸と、音楽で培った詩的感覚は、就職活動でも存分に発揮され、希望した有名商社や銀行を総ナメにした。インド人聖者パラマハンサ・ヨガナンダの四行詩を披露したことが強烈な印象を与え、東京銀行に入行して数カ月経っても、他企業から誘われ続けた。だが、石油会社の集まる内幸町支店で、巨額の信用状を扱うことが楽しく、転職など思いもしなかったという。
荒井氏は4年目に若手派遣制度でニューヨークに赴任する。「オフィスに性能の悪いファクスが1台しかない時代で、奴隷のごとくこき使われた2年半でした(笑)」。
その後、鉄鋼や商社担当となり、日本のバブル時代にはロシア向けの巨大ガスパイプライン事業で、日本の商社・鉄鋼メーカー連合のファイナンスを付けたり、ロンドンではホンダが自社製品販売金融会社を設立する際のアドバイザーを手がけるなど、大規模な企業活動の面白さにはまっていった。
■数々のM&Aを提案
ホンダには少年時代から縁が深いようだ。ホンダ系部品メーカー最大手のケーヒンは、沖電気のカーエレクトロニクス部門を買収した。典型的なM&A(企業合併)だ。実はこれを提案したのが荒井氏だった。また、NECのカーエレクトロニクス部門のホンダによる買収も、荒井氏が初めに提案し、成功させている。
「銀行員らしからぬ」青年時代からの性分が、柔軟な発想の根源に潜んでいると言えるかもしれない。荒井氏は話す。「目指すべきは、顧客にとって何がいいのかという発想と、それをどう構築していくかという『アドバイザリー&ストラクチャリング』なんです」。
誰よりも破天荒だった若者が、ある日を境に、まじめな銀行員になる。カードを裏返すように簡単なものなのか。「『封印は華やかに』です。根はまじめですしね(笑)」。現在は、中学生の双子の愛娘が、香港に来てくれないことが悩みだそうだ。(香港編集部・西原哲也)