第39回 背中から拝まれる人物に 佐々木俊彦・日本銀行香港駐在参事


第39回 背中から拝まれる人物に 佐々木俊彦・日本銀行香港駐在参事

高名な学者の父から、幼い頃からバカと言われて育った。骨の髄まで、自分はダメだという劣等感が染み付いていた。人間にとって最も重要なことは、「幸福に生きる」ことのはずだろう。だが果たして、父のような際立ったIQは幸福にとって決定的に重要なのか。その答えは……「否」に違いない。不幸な人生を送ったノーベル賞学者も多い。それでは何が重要なのか。大学生の佐々木青年は、苦悶に苦悶を重ねた結果、幸せな人生をつかみ取るために必要なことに、少しずつ、気付き始めた。

東京の国立市に1953年、長男として誕生した。父は、戦後英文学の基礎を作り、『和文英訳の修業』など数々の名著を著した一橋大学の佐々木 高政教授である。カミソリのような感性と天才的知性を併せ持つ父は、凡庸な息子が歯がゆかったようだ。家庭はいつもピリピリし、佐々木少年は毎日のようにののしられる。「こんなに頭が悪い自分がどうして生まれてきてしまったのだろう……」。そうして、拭いがたい劣等感が形成されていった。

成績はトップクラスだったが、佐々木少年は緊張のあまり、都立高校受験に失敗してしまう。秘かに受けた私立高校には受かったが、父は「男が第一志望と決めた目標を捨てるとは何事だ」と激怒。数週間の中学浪人を経て、都立新宿高校に編入を果たした。ここで心温かき恩師に出会い、『心の財産』を築くことができたようだ。日常生活ではクラシック音楽に傾倒。ラジオから流れるモーツァルトやベートーベンをテープに録音し、毎日何時間でも聴いていた。「指揮者の人格や人生観まで、赤裸々に伝わってくるようになりました」。

■「あんたを殺せるんだ」

佐々木青年は浪人後、東大の経済学部への入学を果たすが、幸福に導く価値観を求めて、苦悶は続いた。それでも父の価値観に押し潰されることは、ついぞなかった。 父へのアンチテーゼから、学者にだけはなるまいと決めていた。同じ努力をするなら、別の分野にエネルギーを向ければ、きっと人生は実り多いはずだ。「利益に追われず、国に貢献できる」日本銀行が、自分の性分に合っていると思われた。

1977年に日銀に入り、統計局、仙台支店などを経て、佐々木氏はワシントンの国際通貨基金(IMF)に出向する。ここでIMFの一員として、開発途上国の経済建て直し交渉の矢面に立つという過酷な役目が待っていた。

南米のある国は、ダイヤモンドやボーキサイトの豊かな資源を政府が民間から買い取り、輸出して外貨収入を得ていた。ところが市場に見合わぬ固定レート制を保持しているため、数倍も開きがある闇レートが横行。なんとその闇レートの実行権限を、財務大臣ひとりが抱えていた。貧しい国で、ひと握りが富を独占する社会構造である。佐々木氏は政府との交渉の場で、フロート制導入を求めた。それは同時に、財務大臣の私財基盤を崩すことを意味した。

「ミスター・ササキ、俺はあんたを殺せるんだぜ」――。海の向こうの家族にもう一度会いたいだろう、財務大臣は不敵な薄笑いを浮かべてそう言ってのけた。その時だ。佐々木氏は目を剥き、思わず怒鳴ってこぶしを机に叩き付けていた。「自分は絶対引き下がるものか!日本人をなめるな!」。佐々木氏の怒髪天を衝く勢いに財務大臣は一瞬たじろいだが、交渉の場はさらに火花が散る緊迫した場となった。

その日の夜、IMF一行は相談した結果、もしやの場合に備えて急遽ワシントンに戻った。「私のような家庭で育った人間は、ああいう状況だと自分の中に『侍』が出てくるんです。背負っていたのは、IMF代表という立場より、日本人でした」。

アフリカやアジアの最貧国に対し、極限の財政改革を要求せねばならない時もある。すり切れたスーツを着たアフリカ某国の財務大臣がIMF要求に憤り、「われわれは確かに貧しい。だがわれわれにはプライドがあるんだ!」――涙ながらにそう叫んだ姿が、佐々木氏には忘れられないという。

■森羅万象に関する教養

95年には事務所次長としてニューヨークに赴任。この時も、大和銀行の巨額損失事件など数々の邦銀スキャンダルに遭遇し、米銀行当局と邦銀との橋渡し役で忙殺された。円が79円の史上最高値を付けた時、世界の投機筋を相手に、巨額の介入を手がけたのも佐々木氏らだった。「同僚には、不幸な事件の渦中に行く人間だとからかわれました。妻に『仕事を辞めたい』とぼやくと、『天はあなたなら収拾できると思っているのよ』と慰められましたけど(笑)」。

これまで小説のような数多くの修羅場をくぐり抜けてきた佐々木氏が矜持としてきたのは、どんな不遇や失敗、劣等感に打ちひしがれていたとしても、それらを最終的には跳ね返し、元を取る強い心持ちだ。それが幸福な人生につながる源である。「海岸の膨大な砂の中に、ほんのわずかだけダイヤの粒がある。それを見つけるには、自分が冷静で強くなければ」。

懊悩し続けた青年時代から、人並み外れた好奇心を示し、文学や音楽、科学など、森羅万象に関わる教養を身に付けた。

日銀に就職する際、父がひとつの言葉を贈ってくれた。それは「背中の方から拝まれる人間になれ」だった。巨万の富を持つ人間には、みな前から拝む。だが、人のために尽くす性分の息子は、行為で感謝される人間になれるはずだろう。

父はそして、こうも付け加えた。「お前は才能もないし頭も悪い。だが、立派な社会人にはなるだろう。それだけは、父親としてよくわかる」――。(香港編集部・西原哲也)

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