第37回 ニューヨークでの転機 国分文也・丸紅中国華南社長


第37回 ニューヨークでの転機 国分文也・丸紅中国華南社長

国分氏がある日の深夜、夢にうなされて目を覚ました。額には冷や汗がにじんでいる。「またあの夢だ……」自ら指揮を取って立ち上げたニューヨークの原油先物取引会社が1992年12月、清算することになった場面の夢である。夢の中で、責任者として、家族を持つ地元従業員にクビを告げた時、彼らの表情がさっと精気を失う。相場が荒れたあの時、あのポジションを変えていたら、この展開は違っていたはずだ。悔やみ、辛酸を舐めた悪夢である。そんな記憶が随分の間、心の奥にこびりついていた。

1952年、東京に生まれた。父は絵画や小説を趣味とし、母は音楽理論を教える音楽家という、当時としてはモダンな家庭環境だった。だが、両親ともに仕事が忙しく家にはなかなか帰ってこない。「おふくろの手料理は、ほとんど食べたことがないんです」。

放任主義の母だったが、国分少年が小学校6年の時、母はなぜか急に有名中学を受けろと言い出した。なすがままに勉強し始め、私立の麻布中学に潜り込んだ。中高一貫のこの学校は、実に自由奔放な学校だった。だが、その自由さにあぐらをかき、国分青年は享楽的な遊びに身を費やした。斜に構えた態度で大人に接し、酒やタバコはもちろん、ケンカにも手を出す。実は、ワルを気取ってはいるものの、そのまま破滅していくことへの恐怖に、内心いつも怯えていた。それを人に見せまいとして、さらに意気がる。「実は大変な小心者でね。今でもそうなんですが(苦笑)」。

■起業への関心

国分青年はわずかな期間の受験勉強を経て、慶応大学に入学を果たす。だが大学に入り、さらに自由な時間を確保すると、ますます自堕落な生活が待っていた。自宅にはほとんど帰らず、刹那的に若さを持て余した。

ある日、街で些細なことからある若者とケンカになった。相手を追い詰めると、相手側は仲間が駆け寄り、20人くらいに膨れ上がった。ヤクザだった。万事休すだ。そして逆に、無残に殴り倒された上に、法外な金額の「賠償金」まで請求されてしまった。それを払うため、この日からバイト三昧の日が始まった。

さまざまなバイトを請け負ううち、国分青年は、起業に興味を持ち始める。そして大学4年時に、浜松でのウナギ養殖事業を思い立つ。仲間と詳細に事業計画を詰めたが、最後の段階で、どうしても資金が足りない。親族にも借金を依頼したが、にべもなく断わられた。起業は結局断念せざるを得なくなった。そうして、商社マンだった祖父から、商社を紹介されることになった。

75年に丸紅に入ったが、野心は常に抱いていた。この会社で「手に職を得て、人脈を築いてやろう」そう誓った。

配属されたのは、石油製品トレーディング部。石油製品の対日売り込みの営業を担当し、8年後の83年、ニューヨーク駐在となる。ロンドン、シンガポールと並ぶ世界の原油取引拠点である。第2次石油危機を経て、原油相場が急激に下がる直前の頃だ。丸紅はその頃、独立系企業との合弁で、NYMEX(ニューヨーク商品取引所)の原油先物取引や対米輸入を手掛けていた。稼げる商売だと判断した国分氏は、丸紅独自でやろうと会社を設立し、トレーダーを引き抜いた。  国分氏も切った張ったのデリバティブ(金融派生商品)にのめり込む。1日の出来高は最大200万バレル(5,000万米ドル)と、日本全体の需要量の半分に相当する量を売買したという。

ところが、91年に勃発した湾岸戦争などにより、原油相場は大きく荒れた。昨日の相場の延長には明日の相場がない、という時期だ。会社は荒波にもまれ続け、赤字は否が応にも膨らんだ。本社からの撤退要求にも、抗しきれなくなっていた。そうしてついに、会社を閉鎖した。当時の日系商社は軒並み、やられた。

■失意の帰国

国分氏は話す。「時代背景と言うと言い訳になる。変革期と安定期での相場対応を見誤ったのが原因です」。会社閉鎖を受け、地元従業員に解雇通告せざるを得なかったのは、針山の上を歩く思いだったという。

国分氏は失意のうちに帰国し、再び実需の原油取引に戻った。だがそれからは、安定的な業績を築き上げていく。その後、石油取引のアジア子会社社長として97年にシンガポールに赴任。アジア通貨危機の直後だったが、営業は堅実に切り抜けたようだ。

その堅実経営は、ニューヨークでの苦い経験が教訓になったと言えるだろうか。「確かに教訓とは言えます。しかし今でも、あの会社をもう一度やりたいという思いはありますね」。

国分氏は「財政赤字の米国、バブル後の日本、アジア危機後のシンガポール、そして返還後の香港と、赴任地はいつも不景気なんです」と笑う。だが、香港では、将来のダイナミックなビジネスチャンスを前に、身震いさえ感じるという。

ニューヨーク当時のトレーダー仲間とは、今でも付き合いがある。定年後、業種は別でも、またニューヨークで一緒にやろうかという話も出るそうだ。「落とし前をつけようかと。家内は反対していますけど(笑)」――。(香港編集部・西原哲也)

NNAからのご案内

出版物

SNSアカウント

各種ログイン