第33回 小豆島に恩返しを 西原正明・カシオ 香港会長


第33回 小豆島に恩返しを 西原正明・カシオ 香港会長

1943年、温暖な瀬戸内海に浮かぶ小豆島に長男として生まれた。戦時中で食糧が少なく、毎日麦か芋ばかりで、白米など食べた記憶がないという。だが漁業の村だ。漁船が出るほら貝が聞こえると、まだ小学生の西原少年も船に飛び乗り漁を手伝う。かご一杯のイワシを褒美にもらえたという。

忘れもしない小学5年の時だった。木下恵介監督が率いる映画撮影隊が、突然小豆島にやってきた。壺井栄原作『二十四の瞳』の撮影隊だった。西原少年は心躍らせ、授業を抜け出して「大石先生」の高峰秀子らを追いかけた。「その他大勢のエキストラで映画出演できました」。

父は船乗りだった。だがそのために、めったに家に戻ってこない。それでも父の影響を受け、航海無線技士を目指した。そもそも船舶関係以外には働く場所もなかった。

■トランジスタ計算機を設計

地元の高校を卒業した西原青年は61年、大阪の電気通信大学に入学する。開設されたばかりの大学の電子工学科で、計算機のための論理数学を学ぶ。「これからは電子の時代がやってくる」と確信していた西原青年は、計算機メーカーに的を絞り、300人規模の小さな会社だったカシオに就職した。国立電気試験所が56年に、トランジスタ式計算機「ETL MARK III」の開発に日本で初めて成功してまもない時代だった。

西原青年は設計・開発部門に配属されたが、不安にさいなまれざるを得なかった。というのも、リレー式計算機の製造が主流だったカシオはこの頃、急速にトランジスタ式への転換方針を進めていた。リレー式の製造ラインは止まったままで、従業員が時間を持て余して草むしりばかりしていた。「『君たちの設計するトランジスタ式が売れないと、うちは倒産するんだ』と言われて身が引き締まりました(笑)」。

だがカシオは65年、電子式卓上計算機『カシオ001』を発売し、大ヒットとなる。後に「電卓戦争」と呼ばれた熾烈な市場競争に勝ったカシオは、その後も時計、電子楽器と事業分野を拡大し、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していく。

 甲府、八王子の従来工場でも需要を支えきれなくなり、カシオは79年に山形県東根市に工場を設立。西原氏がここで電卓部門の責任者についた。それでも受注に追いつかず、市内のいくつもの零細工場に外注せねばならないほどだった。さらに、毎年6月頃には人手が足りなくなった。「県民が皆、山菜取りに山へ入ってしまうんです(笑)」。

カシオがマレーシアに進出したのは90年である。西原氏はここで、工場立ち上げに主導的役割を果たす。現地ではマハティール首相の「ルック・イースト」政策に伴い、日系企業が飛躍的に増えていた。ところが進出してはみたものの、ここでもまた人手が足りない。3,000人の従業員のうち約150人が毎月辞めていく。スタッフは毎日のように田舎に行き、人を集めてくるのが任務だった。

■キャッシュフローを2倍に

マレーシアの一部では、壁に「神」が現れるという言い伝えがあるという。たとえ勤務中でも、それを「目にして」、泡を吹いて卒倒してしまう従業員もいた。なぜか周囲に連鎖反応を引き起こし、次々に従業員が倒れていく。それが何度も起きた。「これには驚きました。でもなぜか忙しい時に起こるんです。サボタージュなのか真実なのか、毎回見極めねばなりませんでした」。

カシオはその後、経営上の戦略からマレーシアの工場を外資企業に売却。中国本土での生産体制を本格化させていく。

西原氏は96年にカシオ香港に異動し、中国産の品質を3年で飛躍的に向上させたほか、商品企画から資材調達まで、自己完結型のスピードアップ生産体制を5年で築き上げた。これに伴い、カシオ香港の2002年の売上高は18億HKドルと、過去最高を記録したという。

『21世紀はスピードの時代』が持論。他社が10日かかることは、カシオは8日で仕上げるようにした。それが実を結び、西原氏の駐在した7年間、キャッシュフローが約2倍に増加したそうだ。

マレーシア、香港の13年間の海外勤務はすべて単身赴任である。「その意味では、結局自分の父親と同じ道を歩んでしまいました」――。

54歳から中国語を始めるなど、関心事には精力的に取り組んできた。将来実現したいのは、小豆島での介護ビジネスである。身寄りがなかったり、慣れない都会生活を強いられるお年寄りが急増しているからだ。生まれ故郷に対する、恩返しの意味も込めている。(香港編集部・西原哲也)

NNAからのご案内

出版物

SNSアカウント

各種ログイン