第32回 「音」と「人」のハーモニー 江藤誠・損保ジャパン 香港支店長


第32回 「音」と「人」のハーモニー 江藤誠・損保ジャパン 香港支店長

1990年7月29日、シンガポール――。安田火災海上保険のシンガポール支店に、某日系化学メーカーから貨物輸送保険の依頼が舞い込んだ。だが、書類を目にした営業部長の江藤氏は絶句した。輸送先は「クウェート経由バクダッド行き」だ。ちょうどその頃、イラク軍がクウェート国境周辺に集まり始めたとの不穏な情報が相次いでいた。引き受けるべきか否か。苦渋の決断に迫られた江藤氏は、結局、「諾」の判断を下した。ところがそのわずか5日後、イラクはクウェートに侵攻した。

1957年、東京都に長男として生まれた。父親の転勤のため幼い頃に引っ越しを繰り返し、その後横浜市に落ち着いた。おとなしい性格で、音楽が大好きな少年だった。中学時代には吹奏楽部に入り、優しい音色のフルートに魅せられた。幼稚園からピアノを習ったせいか、鋭敏な音感を持っていたようだ。絶えず他人の楽器音に耳を澄まし、自らの音色を正す。指揮者さえ気が付かない音の狂いにも気付き、演奏後に「不協和音」を自ら指摘していたという。

高校に入ってもフルートにのめり込んだ生活だった。フルートは、「音色の安定性」が命である。それを習得するため、「家に帰っても時間を忘れて、何時間でも平気で吹いていました」。

■被害者には礼を尽くす

慶応大学でも、フルートは続けた。「大学内で有名なオーケストラ部の入部テストに落ちてしまい(笑)」、応援指導部吹奏楽団に入った。六大学合同演奏会『六旗の下に』や、都市対抗社会人野球大会の応援バイトなどに精を出す生活に加え、プロの個人レッスンを受けていたほどだった。「音楽はいかに基本が大切か身に染みました」。

江藤青年は卒業後、79年に安田海上火災に入社する。国際政治を学んでいたため、損保業界なら外国に行けるかもしれないと目論んでいた。ところが入社すると、損害査定を担当する火災新種保険サービス部に配属された。火災や事故現場に直行し、鑑定人と現場で損害を積算する。目に見えない保険商品が、まさに形になる瞬間に立ち会うわけだ。

保険会社は柱が1本でも残れば全損扱いしない、という風評がある。これは戦争直後、丸焦げになった柱を「これは炭だから価値がある」として、ある損保会社が査定からその分を差し引いたという話が伝わるためだ。実際の損保業界はどうなのだろうか。

江藤氏は苦笑して話す。「50年以上経ってもそんな言われ方をされる。人が困っている時にそういう行為をすると、いかに恨まれるかの典型でしょう。そういうことはあり得ません」。

当然、悲しい現場にも出会う。家族が亡くなった火災現場には、凄惨な光景の中に、ぽつんと花束が供え置かれている。そんな時に保険会社員が現場で手を合わせ、礼を尽くして家族らに接することが、どれだけ家族を慰めるかしれない、と江藤氏は話す。

どんな真冬でも、被害家族に勧められるまでは、家屋の中ではコートも着ない。どんなに土砂やススにまみれていても、土足で上がってもいいかどうか必ず家族に尋ねる。「火事は人生に一度あるかないか。そのつもりで客に接することを心がけてきました」。

90年にシンガポールに赴任したが、営業と海外は初めての経験だった。バクダッド行きの貨物輸送保険依頼は、わずか赴任3カ月目の、手探り状態の中で舞い込んだ。約1,000万米ドルの保険である。最悪の場合、船が戦争に巻き込まれる危険性がある。「戦争レート」を通常より引き上げ、再保険も手配することで、江藤氏は結局引き受けを決断した。

ところがわずか5日後、イラクはクウェートに侵攻。貨物船がインド洋を通過していた時だった。貨物船は急きょドバイに寄港し、そのままシンガポールまで引き返した。「冷や汗の出る毎日でした。国際情勢が直接仕事に影響した初めての経験でした」。

■現法立ち上げに参与

その年の10月、江藤氏は顧客情報から、掘削用ブルドーザーが米国本土からサウジアラビアに大量に輸送されたことを知る。続いて、原油用シームレスパイプやタンカーは供給市場から消えていく。そうして、「91年1月の開戦はなし」と平和に報道していた日本の一部マスコミをあざ笑うように、湾岸戦争は1月17日に始まった。江藤氏は「戦争は兵站準備を進めること、準備した以上は必ず始めること」を実感したという。

安田海上火災は2002年4月に第一ライフ損害保険と、7月には日産火災と合併し、損保ジャパンが誕生する。江藤氏自身は97年に帰国後、南アジア大洋州部門を担当し、タイやベトナムでの保険会社立ち上げに関わったほか、外資保険会社として初めての大連支店開設に加わった。この結果、貨物保険に加え、中国全土で大規模な火災保険の引き受けが可能になったという。

休日を利用し、香港大の課外過程でMBAを受講し始めた。会社運営ノウハウや人事学を体系的に学びたかったという。「音楽も人事も、ハーモニーが大切ですから(笑)」――。(香港編集部・西原哲也)

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