第31回 若き日に旅せずば 村田良治・日本郵船 (香港) 社長


第31回 若き日に旅せずば 村田良治・日本郵船 (香港) 社長

1977年冬、北アルプス穂高岳――。天候が悪く、第4尾根はその日、雪崩が相次いでいた。28歳の村田青年は先に、登山の途中で会った人物が人形のように落ちていくのを見たばかりだ。仲間とビバーク(緊急野営)せざるを得ず、わずか数十センチ幅の絶壁に身体をロープで固定する。だが3日目、一行が強行突破を決断したその直後だった。村田青年を支えていたハーケン(固定釘)が飛んだ。彼は投げ出され、大声と共に真っ逆さまに落ちていく。「もうダメだ、自分はこのまま死ぬんだ」。遥か下方の、細く白い谷底が近付く。時間はなぜか、ゆっくり流れていた。

1949年、三重県三雲村で生を受けた。温和適雨な伊勢平野の農村だ。農道沿いの川で皆が洗濯をする光景が盛んにみられた時代だった。周囲は9割が農家という村の中、村田家は元地主の家系で、父が公務員。そのため村田少年だけは、周囲から「ぼくちゃん」と呼ばれていた。

小学校低学年までは平穏に暮らしたが、その後、家庭事情が複雑化していく。その影響があったのか、表面的に明るい性格とは裏腹に、内面的な葛藤に煩悶する青年に成長した。その頃、偶然聞いた開高健の講演で、ベトナム戦争体験を聞いたことが、冒険に目を開かせた。

家庭は困窮を極めていたものの、村田青年は、奨学金制度を利用して大阪市立大学に進む。だが70年安保が真っ盛りの時代だ。寮の仲間たちと共に、学生運動にも参加した。その一方で、大学の探検部に入り、登山を始める。学生生活は学生運動と、バイトと、登山ばかりに費やされた。

だがそれらは、過酷な体験に満ちた青年時代の始まりに過ぎなかった。

■エスカレートしていく冒険

村田青年は大学3年時に、ナホトカからモスクワ経由で、欧州を放浪する旅に出る。日本に戻るつもりはなく、片道切符しか持たなかったという。欧州各国からインド、イスラエルなど各地を訪れ、さまざまな職業に就きながら稀有な体験を重ねた。だが、疲れ果てた村田青年は、意を決して帰国する。既に、1年半もの月日が流れていた。

日本では、山下新日本汽船に就職したが「ふらちな態度で、いつも斜に構えて」生きていた。神戸や東京で営業を担当したが、幸い週末は時間がある。そこで探検好きの本能がうずいた。先鋭的なロッククライミングの社会人クラブに入り、毎週末できるだけ過酷な山に挑戦する。難しい山を制覇すると、さらに難しい山へとエスカレートしていった。大きな事故に見舞われたのはその頃だ。

77年冬、北アルプス穂高岳滝谷の第4尾根は、冬になると日本海側から季節風が吹き付け、厳冬期登はんの難関な場所として知られる。身体を絶壁に貼り付け、わずか数センチ幅の岩肌に全体重をかけて攻めていく。湯は、手の上にストーブを置いて沸かしたという。

強行突破しようとしたその時、村田青年の身体が、ハーケンと共に岩肌から投げ出された。だが落下の途中で、激しい衝撃とともに身体が急停止した。仲間とつながれたザイルで宙吊りになり、危機一髪で谷底での死を逃れた。

雪崩に流されながらも必至に避難小屋にたどり着いたが、足の指先が凍傷になり、危うく切断するところだった。

剣岳の黒部渓谷では雪渓の空洞に落ち、全身打撲を負ったこともあるという。「今考えると特異な集団でした。事故に遭っても全く怖くなかったんです」。

■米国留学が転機に

ちょうどその頃、山下新日本が社内留学制度を始め、村田氏は選ばれて米国のコロンビア大学ビジネススクールに留学した。米国行きを契機に、ロッククライミングはぱったりと止めざるを得なくなった。だが「止めたのは幸いでした。あのままエスカレートしていたら、いずれ命を落としていたでしょう(苦笑)」。この米国の2年間とその後の結婚が、村田氏にビジネスマンとしての「正気」を与えてくれたようだ。

村田氏は88年、山下新日本とジャパンラインが共同出資した日本ライナーシステム(NLS)の駐在員としてシンガポールに赴任した。だがNLSは91年、日本郵船(NYK)に吸収合併される。村田氏はそのままNYKのシンガポール駐在員として横滑りした形になった。

そして2001年、インド最大財閥タタグループとの合弁で、ボンベイにあるタタNYK(TNTS)社長に就任。合弁権益拡大に参与したほか、バングラデシュに駐在員事務所を作るなど、南アジア地域の組織強化に尽力してきた。

青年時代に積み重ねた死と隣り合わせの冒険の数々は、ビジネスでの糧になっているのではなかろうか。

「いや、それは全くないです。あれはまったく別の世界ですから。ただし、あえて探すとすれば、『結果より現在の行為が重要だ』という自分の教訓が、仕事にもあてはまることでしょうか」。

死を意識するほどの「瞬間を生きる」醍醐味を味わった経験は、村田氏の独特な価値観を築いてきたともいえる。「『若き日に旅せずば老いての日に何をか語らん』というゲーテの言葉に、憧れただけなんですけれど」――。(香港編集部・西原哲也)

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