第30回 Aim High (志を高く) 中村英剛・みずほコーポレート銀行 香港支店長


第30回 Aim High (志を高く) 中村英剛・みずほコーポレート銀行 香港支店長

2001年9月11日午後10時、東京――。富士銀行(当時)の中村英剛氏が帰宅すると、夫人が血相を変え、背広姿のままの中村氏を居間に引っ張り出した。目の前のテレビには、2年前まで勤務したニューヨーク世界貿易センターのツインタワーが映し出され、片方が黒煙を上げていた。絶句しながらも、中村氏は気が付いた。「富士銀のオフィスは別の棟のはずだ」。だがその数分後、別の航空機が、静かに、もう片方の棟に吸い込まれていった。「タクシーを呼べ!」。再び本店に向かう深夜タクシーの中、中村氏は祈るように天を仰いだ――。

1956年、鹿児島県鹿児島市に長男として生まれ育った。郷土の雄、西郷隆盛のように「男は多くを語らず、黙って実行する」を良しとする土地柄だ。だが中村少年の性分は正反対だった。どうしてどうしてと、何でも人によく尋ね回り、「周囲には『こまっしゃくれた子』と言われましたねえ(笑)」。

少年時代から、模型作りが大好きだった。特に熱を上げたのは飛行機だ。ありとあらゆる飛行機の模型を自分で作り、専門雑誌を読みあさった。小遣いを貯め、日本には売っていない米国の雑誌を個人輸入してまで手に入れた。飛行機に関することなら右に出る者はいない、まさにエアマニアとなった。

■念願の海外に

将来はパイロットになるしかない。幸い九州には宮崎県に航空大学校がある。そこに入学することを目指したが、高校時代から本を多読したためか、3年の夏休みには近視になってしまった。入学には1.0の視力が必須条件だ。中村青年は無念の思いでパイロットを断念し、方向転換を余儀なくされた。だが、そもそも飛行機が好きなのは、それに連想される「海外」への憧憬があるためだ。それならば、海外を飛行機で飛び回る仕事を目指せばいいのだ。

中村青年は一橋大商学部のゼミで「国際通貨制度」を学ぶ。就職では無論、海外に行ける会社を絶対条件に選んだ。大学での知識を生かして海外と関係するのは、銀行だろう。圧倒的に国内業務の多い富士銀行なら、海外勤務を希望する行員が比較的少なくて有利かもしれない、そんな想像が働いた。

そして1978年、富士銀行に入行し、八王子支店に配属。その4年後、念願の海外勤務辞令が出た。行き先はニューヨーク。忘れもしない、ちょうど米国独立記念日(7月4日)に日本を発った。「乗るとすぐに『ボーイング747-SP型機』だなと分かりました(笑)」。 

翌85年に日米のプラザ合意が成立し、円高が急速に強まる時代が始まろうとしていた。中村氏はニューヨーク支店で、マネーマーケットやデリバティブ(金融派生商品)を担当。ちょうど邦銀がデリバティブを始め、海外での長期融資を可能にしていた頃だった。金利低下局面だったため、「私のような『だめディーラー』でも儲けました(笑)」。

5年後の88年に中村氏は帰国するが、95年に再びニューヨークに転勤となる。金融モニター画面をにらみ続ける毎日だった前回とは打って変わり、今度は積極的に外に出る営業だ。米国全土に限らず、南はメキシコ、ブラジルまで幅広く出張した。「出張は大好きなんです。何よりも、飛行機に乗れるでしょう(笑)」。

海外勤務が好きなため、希望部署欄にはいつも「日本以外」と書いたそうだ。

中村氏の米国駐在は、合計11年間に及んだ。この間、喜怒哀楽に浸った米国には特別の思い入れがあるという。その理由のひとつが、世界的事件に巻き込まれたことである。

■絶望の中の灯

2001年9月、中村氏は東京本店で富士銀、第一勧業銀、日本興業銀の統合に関わる慌ただしい生活を送っていた。そして、世界中の人々がかたずをのんでテレビに釘付けとなるセプテンバーイレブンがやってくる。約600人もの行員が働く富士銀のオフィスは、南棟の78~82階を占めていた。飛行機がちょうど激突した辺りだ。1機目と2機目の激突の間に約20分の時間差があった。これが大多数の従業員に逃げる時間を与えてくれた。それでもテロの犠牲となった富士銀行員は、日本人12人を含め22人もいた。最も仲が良かった同期の親友も含め、中村氏の知人ばかりだった。

富士銀はテロ事件の直後、事態の処理に中村氏を急きょニューヨークに派遣した。無情なマスコミのフラッシュを浴びながら、行員の犠牲者遺族と共に成田を発つ。これが皮肉にも、3回目のニューヨーク駐在となった。

ただし、大惨事の中で希望もあった。オフィスやコンピューターがなくて困っているだろうと、日系企業が無償提供を申し出てくれたほか、日本の人々から激励の手紙も受け取ったからである。「絶望の中の、唯一の灯でした」。

米国が中村氏に与えた、筆舌に尽くしがたい悲痛感は、今でも心の奥底にある。中村氏は、命を落とした仲間のためにも、いつも志を高く持ちたいという。その気持ちを香港人スタッフに説明する際、「Aim High」と訳したそうだ。

中村氏の左腕には、犠牲となった親友の形見である腕時計が、今でも中村氏を見つめている。(香港編集部・西原哲也)

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