第29回 テクノクラートの誇りを胸に 齋藤章・富士ゼロックス極東社長


第29回 テクノクラートの誇りを胸に 齋藤章・富士ゼロックス極東社長

1959年夏、東京――。中学3年の齋藤少年は来春の高校受験を控え、民間業者の模擬テストを受けていた。その最中で、ある試験官が静かに歩み寄り、こう言った。「今すぐに自宅に帰りなさい」。意味もつかめず渋々家路に付くと、自宅に近付くに従い、なにやら騒がしくなっている。「一体何があったんだ」――。この日を境に、自分の人生が急展開することになろうとは、この時の齋藤少年には思いもよらなかった。

1944年、母親の実家の栃木県小山市に長男として生まれ、父が豆腐屋を経営していた東京都江東区にすぐに戻った。

齋藤少年は活発な性格で、民家から漂う夕食支度の香りでわれに返り、ようやく帰宅するという毎日だった。中学に入ると受験戦争に巻き込まれ、勉強ばかりの生活になった。将来進学校に入ることは容易に想像できた。

そんなある日のことだった。模試を受けていた彼が不可解な思いで家に帰ると、青ざめた顏の姉たちが、父が交通事故で亡くなったことを告げた。姉の部活動の合宿に、父が親切にも布団を届けようと自転車で運んだ帰り道での悲劇だったという。齋藤少年は頭が真っ白になり、呆然として立ちすくんだ。財政的、精神的な一家の柱が急にいなくなった。長男の自分は、実家を支えるため、おそらく高校にさえ進学できないだろう。そうして、自暴自棄になった。

■期限は3年だけ

だがある日、「高校には進学しなさい」と母から進言される。高校に行ける!喜び勇んだ齋藤少年はそこで、隅田工業高校に入学した。東京都内では優秀な工業高校だ。何よりも家から3分の距離にあり、豆腐屋を手伝うには絶好だと思ったからだ。卒業後すれば、家を継ぐだけだ。

高校も卒業間近になったある日、齋藤青年は豆腐作りの器具で、前歯を3本も折る大けがをしてしまった。これを機に、母親は彼を手伝わせることに不安が生じ始めた。そうして、卒業後は社会勉強してきなさいと勧めてくれた。ただし、3年間だけ。3年経ったら、豆腐屋に戻るという約束だ。

よし、ではどんな会社に入るべきか。どうせ3年だけなんだ。面白くて、給料のいい会社を選ぼう。そんな企業の中に、富士写真フイルムと英ランク・ゼロックス社が、前年に合弁で設立したばかりの「富士ゼロックス」があった。日系大手メーカーの初任給が7千円の時代に、初任給は1万6千円だった。会社見学会では、腕時計を複写機に置いてコピーする実演を見た。複写機がまだ日本には存在しない時代だ。数枚のコピー紙に写った腕時計は、秒針がそれぞれ違っている。「『時間』が写されたようで、本当に仰天しましたね(笑)」。

富士ゼロックスに無事入社した齋藤青年は、千代田区の販売本部営業技術課に配属された。営業と技術の両方を担当し、超多忙な毎日だった。白紙に複写機の全配線図を書いてみせ、全て分解してから組み立てる訓練を何度もさせられた。そして、あっという間に約束の3年が過ぎた。仕事は大変面白く、とてもじゃないが豆腐屋に戻るのは忍びない。そこで母親に嘆願し、会社勤務を続ける許可をついに得たという。

富士ゼロックスは当時、東南アジアを中心とした海外展開を進めていた。そこで齋藤氏が韓国に赴任。2年後には、台湾セメントとの合弁である台湾ゼロックスの技術顧問として台北に駐在した。富士ゼロックスの複写機は当初からリース契約のみだったが、契約は需要に追いつかないほど順調に伸びていった。

■グループ1位の現法に

そして米国の新型複写機の導入に伴い、齋藤氏は今度はニューヨークに赴任する。この時、夫人の出産が近かったため、母も駐在に同行することになった。「『海外勤務に親を連れていった駐在員』として話題になってしまいました(笑)」。母は、米国の老人がいかに余生を楽しんでいるかに感銘を受けたようだ。豆腐屋一筋でまじめに働いてきた母は、帰国して江東区に戻るや、精力的に習い事を始める。「下町のモダンおばさんって呼ばれてました(笑)」。

齋藤氏は帰国後、営業を代表して開発部門に要求する本社のテクニカル・サービス部に戻る。それから次々に、会社が必要とするべき重要部門に登用されていく。齋藤氏が客の声を反映しようと提言すれば品質保証部長に、品質を改善したら今度は部品コストが問題になり、原価管理センター長に抜擢される。そしてコスト基準を作ったら、基準通りには調達できないという声が高まり、「じゃあお前が現場に行ってこいと」、調達基地である香港の富士ゼロックス極東の社長として派遣されたというわけだ。

同社は現在、複写機生産台数ベースでグループ第1位の海外現法にのし上がった。2005年までに年産100万台が目標だ。優秀な企業を支えるのは、オピニオンリーダーよりむしろ、テクノクラートであることを実感している。来年11月に定年を迎えるが、それまでに燃え尽きるほど120%の力を出しきりたいという。

今年3月にクモ膜下血腫を患い、大手術を経てついに回復した。「退院してすぐにゴルフをしたら、皆に『鉄人齋藤』ってあきれられました(笑)」――。(香港編集部・西原哲也)

NNAからのご案内

出版物

SNSアカウント

各種ログイン