第26回 地元社員との関係を密に 北原敬三・エプソン(香港)社長


第26回 地元社員との関係を密に 北原敬三・エプソン(香港)社長

1972年2月、東京――。大学生の北原敬三青年は新聞を凝視し、息を飲んだ。「あいつらだ……」。長野・群馬など県警連合は、妙義山中にこもる連合赤軍の捜索のため、3,000人を超える警官を出動させていた。連合赤軍は、銃撃戦を繰り返しながら人質を楯に軽井沢の浅間山荘に立てこもる。だがそこに行き着くまでに、革命のためと称して数々のメンバーが組織の「犠牲」になった。その連合赤軍メンバーの中に、北原青年と高校時代を和やかに過ごした男たちがいた――。

1950年、長野県茅野市に生まれた。父は駅員、母は編み物教室を開いていた。4人姉弟の末っ子で人なつこく、信州の豊かな自然の中で快活な少年として育った。スピードスケートや陸上競技で、中学校代表に選ばれたこともあるという。

北原青年は自由教育を標榜する地元の進学校、諏訪清陵高校に入学。バンカラ気質が残りながら、まさに自由極まりない学校生活。だが一方で、釘のように尖っていた生徒たちの個性は、3年後には、磁石に一斉に引き付けられるように、否応もなく大学受験という同じ方向を向かせられる。自由でありながら自由ではない。そんな悶々とした空気が、同級生たちの間に、確かにあった。

当時、野坂昭如や五木寛之に影響されていた北原氏は浪人後、早稲田大学社会科学部に入学。大学正門前の大隈通りに3畳一間を間借りし、つつましく暮らしたが、大学紛争真っ盛りの時代だ。北原氏は「ロックアウトで、ほとんど授業を受けていないんです」と苦笑する。

■薬品営業の重圧

北原青年はノンポリだったがある時、物見遊山の気分で東京で行われた大規模なデモに参加した。その時だ。高校時代の同窓生のひとりと路上で偶然出くわした。彼は真剣に国を憂いており、このデモが人生にとっていかに大きな意味を持つのかを、静かに話してくれた。北原氏は自分の浅薄さを恥ずかしく思い、また同窓生として、これだけ精神世界が異なることにショックを受けたという。

その後、彼の顏を再び見たのはそれから3年後、1972年2月の新聞紙上だった。日本は、浅間山荘事件一色となり、国民は現場中継するテレビの前に釘付けとなる。連合赤軍の中には、北原氏の同級生が2人いた。だが「同級生たちの間では、彼らを責める雰囲気はなかったですね……」。

北原氏は卒業後、ある大手製薬会社に就職する。都内の薬局営業の仕事だ。担当地域が書かれた地図を渡され、毎日営業で回るのだが、訪問したことを証明するため、各薬局の店員に判を押してもらわねばならない。営業員の労務管理を顧客がするというシステムになっていた。さらに新製品の実演など、事細かな営業指導が徹底しており、精神的プレッシャーは堪え難いものだった。わずか1年で新人社員の70%が辞めていく。北原青年は、父親がガンで病床に伏していたことも後押しし、3年後の1977年、実家の長野に帰ることを決めた。

北原青年は長野で、新進気鋭の企業に中途採用される。クオーツ時計で世界の最先端技術を誇っていた諏訪精工舎が、脱腕時計事業のために作った子会社で、当時プリンタ生産で頭角を現わしていた信州精器である。北原青年の入社直後、信州精器は『エプソン』に社名を変えた。「Electric Printer's Son(電子プリンタの子)」という意味だった。エプソンはその後、諏訪精工舎と合併し、セイコー・エプソンとして巨大化していく。

■倍々ゲームの利益

北原氏は、液晶ディスプレイ(LCD)の営業を担当し、順調に仕事をこなしたが、86年に再び大きな関門が待ち受けていた。香港転勤だ。せっかく里帰りできたのに、今度は海外赴任とは。不安な心持ちでパソコン・デバイスの責任者として渡航した。北原氏の赴任後、活況を呈していた香港市場で、エプソン香港の業績は飛ぶ鳥を落とす勢いで伸びた。86年に約1億HKドルだった香港での売上高は毎年倍々ゲームで伸び、2002年までに35億HKドルに増えることになる。

北原氏は当時、機械によるLCD製造の一部過程をわざわざ手動に切り替えたり、米国向けに卸していたLCD部品を完成品として卸すといった、社としては前代未聞の改革に取り組んだ。この改革は膨大な利益を産んだ。「それはもう柔軟に、自由にやりました。ローカル社員とのコミュニケーションを大切にしてきたのが功を奏しましたね」。こんな形でも利益が上がるのかと、社員にもやる気が芽生えたという。地元社員との関係を重視した北原氏の功績といえる。

今回は2回目の香港赴任である。北原氏はこれまでを振り返っても、中国市場への目のつけどころは間違っていなかったと自負している。エプソンは現在、プリンタ市場で世界の約20%、香港では43%を占めるまでに成長した。

母は、83歳にして今も現役の編み物教室の師範である。「つくづく思いますよ、仕事があるというのは大事なことなんだなと」――。(香港編集部・西原哲也)

NNAからのご案内

出版物

SNSアカウント

各種ログイン