2002/08/09

第5回 雑草の理念を心根に 本所良太・伊藤忠商事アジア総代表


第5回 雑草の理念を心根に

1981年、バンコクの繊維工場――。タイ人従業員と家族ら約1万人が集まり、恒例の運動会が盛大に開かれていた。営業部長だった本所氏も参加したが、ふと全体を見渡した時、背筋が凍る感覚に襲われた。「32歳の若造の自分が、この大群衆の生活を背負っている」――そう感じたからだ。自分が必死で商品を売らないとこの人たちは生活できない。「ぞっとしましたね。ただその後、仕事の喜びはこの人たちに喜びを与えることにあると感じるようになりました」。

1948年、神戸市須磨に生まれた。サラリーマンの家庭だったが、亡き祖父がかつて大きな繊維会社を経営し、祖父がいかに起業したか親族内で語り継がれていた。本所氏が後に繊維業界にどっぷり漬かる起点はこの時にあったともいえる。

神戸市は1868年の開港により、諸外国から近代化の波が日本でいち早く訪れた都市だ。異国情緒豊かな街並みの中で、幼少の頃から、米国人やインド人、中国人らをよく見かけた。そうして、外国に対する憧憬が芽生えていった。

学生時代は、同窓会で「昔何やっていたの」と聞かれるほど、目立たない少年だった。華々しさや、成績優秀さ、エリート路線などとは全く無縁のひ弱な「雑草」として成長した。本所氏は話す。「ただし、これは自分の人間形成の中で大事な点なんです。そういう経緯があるからこそ、弱者の視点から物事を見ることができるようになったんですから」。

■バンコクの裏路地回る

高度成長下の就職戦線は、学生にとって売り手市場だった。当時、マスコミに毎日のように話題となっていた企業に、伊藤忠商事と野村証券があった。特に伊藤忠は、学生の就職先人気ナンバーワン。「こういう自己主張の強い会社で働けば自分も変わるかもしれない」そんな思いもあった。

ところが伊藤忠に入社すると、貿易担当部署を希望したにも関わらず、配属されたのは繊維の国内販売部門であるニット本部。外国貿易とは全く関係がない部署だ。まあそれならと、幸い体力には自信があったため、徹底的にやってやろうと土日も返上して仕事に打ち込んだ。残業時間は月200時間に達した。ある日、重役に呼ばれた。「褒められるのかと思っていたら、ばか者!と怒鳴られましたよ(笑)」。

仕事は過酷だった。卸問屋が逃げて集金できないのは日常茶飯事で、その度に上司にこっぴどく怒られた。2年ほどすると、このままだと子会社に出されて残業と集金三昧の日々になると危機感を強めた本所青年は、お願いだから貿易部門に異動させてくれと上司に懇願する。

「もともと劣等生社員だったんで、放り出されるように」希望は実現した。異動先は貿易部。それも意識し続けた念願の米国担当だった。

最初の赴任先は、意外にもバンコクだった。伊藤忠と帝人、現地資本の合弁企業のタイ帝人は、タイ国内販売向けの合繊服地生産事業を手掛けていた。工場従業員は2,000人以上いたが、伊藤忠からの出向は本所氏含めて2人だけ。販売は弱冠32歳の本所氏1人に任された。

売れ筋情報を仕入れるため、市内の中国人街サンペンマーケットの裏路地を回り、タイ語を駆使して情報収集し、商品を企画して工場で製品化。それを自分で売り歩く。通常の商社マンとしては考えられない仕事内容だった。染色機械技術まで学んだこともある。商売は大繁盛だった。「日本の最先端技術を駆使した商品で、サンペン問屋街の客先に行くと行列ができていましたね」。

■金儲けだけではダメ

7年間のバンコク赴任を終え、日本に帰国すると中近東課に配属された。その時、湾岸戦争に見舞われる。中近東に船積みした商品が、戦争のために戻ってくる事態となり、月間売上高はゼロどころかマイナスになってしまった。このままでは数カ月で課がつぶれる、と課員に危機感が生まれた。皆が一致団結し、どの港なら貨物を受け取るのか、一人ひとりが中東情勢を死に物狂いで追い求めた。その結果、一時はつぶれることまで心配したその課が、社内で2位の利益を出す成果を上げるまでに復活したという。

本所氏は言う。「商社ではひとつの課はひとつの商店。目的を明確化し、それに向かって皆で一致団結することがいかに大事かを学びましたね」。それを教訓に、もう一度赴任したバンコクでは、アジア通貨危機という通常なら大逆風の渦中にありながら、空前の利益を上げたこともあったという。

将来の夢を抱いている。それは、地方行政に携わることだ。これまで商社マンとして海外のさまざまな都市を歩き学んだ都市機能や経営の知識や人脈を、地方行政に生かしたい。切った張ったのビジネスの世界の次はそんな生き方ではないか、そう感じている。

駐在した外国への貢献も忘れないでいたいという。「ただ金儲けして日本に帰るじゃ批判を浴びるだけ。いかにその国に恩返しできるかを考えるよう、社員も教育しないと」――。香港では、日本人商工会議所の会頭になった。根にあるのは、目立たない雑草の理念である。(香港編集部・西原哲也)

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