2002/07/12

第3回 南米的発想にも一理あり 五月女政夫・三菱電機


第3回 南米的発想にも一理あり

高校2年生だった五月女青年はある日、同級生らと担任の先生の自宅に遊びに行った。するとそこにはもう1人、見知らぬ、目つきが鋭い老人が座っていた。この時の老人との数時間の会話は、まだ17歳だった五月女青年の求知心をくすぐり、そして後年、さらに深い思索の海へといざなうことになる。この時の人物こそ、明治・大正・昭和と三時代にわたり社会主義運動家・文筆家として名を馳せた、荒畑寒村だった。

五月女氏は1948年、東京江東区に生まれた。典型的な下町の商店街にある自転車屋の二男坊だった。商店街らしく、サラリーマンの家庭など周囲にはほとんどなかった。中学生から学級委員はよく任されたが、性格のおとなしい少年だった。

高校は、ベビーブームを受けて新設された学校の第1期生。国語や社会が得意な、典型的な文科系生徒だった。担任も国語の教師だった。

この担任は授業中、時おり西洋哲学者の名前や言葉を引用することがあった。生徒がぽかんとした表情をすると、担任は挑発する。「なに、『キェルケゴール』と『実存主義』も知らんのか」――。

実存主義…。何か、未知なるものに出合ったような、不思議な響き。これが「思索」の始まりだった。担任教師の家に荒畑寒村がいたのは、彼が全著作集の編集に携わっていたからだった。

■西洋哲学と文学

五月女青年はその後、東京外語大のスペイン語科に入学。「世界地図を眺めましてね、英語の他に何語をやれば一番多くの地域をカバーできるかなと。そんな軽い動機でした(笑)」――。

大学ではノンポリではなかった。といって、学生運動に加わるわけでもなかった。ただ、毎日のようにくすぶる高校時代からのもやもやとした知的欲求を埋めたかった。

激しくなった学生運動の影響で、五月女青年が2年生の時に大学は封鎖され、授業が3年生の秋まで、実に1年半もの間休止されることになる。

そのため友人たちと集まり、自分の好きな分野を独学し、勉強会を開いて議論した。五月女氏は、名著「ゴヤ」4部作を著した社会派作家・堀田善衛、「大衆」という概念に脚光を浴びせたスペイン人哲学者ホセ・オルテガなどを好んで題材にした。そうして、高校の担任に触発された哲学と、軽い動機だったはずのスペイン語が、文学という糸で縫い合わせるように、自ずとつながっていった。

その後、1年半もの大学封鎖期間の単位を、数週間の集中授業でなんとか整え、「何事も無かったかのように(笑)」卒業できた。

三菱電機に入ったのは、強い希望があったからではない。だが「自分の会社で作ったものを売る製造業に行きたかった。ある時代は『石炭』、『繊維』と騒がれたが、将来は『電機』の時代だと確信していた」という。

三菱電機に入ると、エレベーターの輸出部門に配属。エレベーター事業でメキシコに進出するため、五月女氏に白羽の矢が当たった。コロンビアなどに拠点を持っていた三菱電機は、中南米の目ぼしいマーケットを探していた。

だが、好調な石油輸出を背景に好景気にわいていたメキシコは、70年代後半から貿易収支が悪化。これを契機にメキシコ政府は76年、1米ドル=19.9ペソと、戦後初のペソ切り下げに踏み切る。輸入物価が高騰し、ビルの建設が中断されるなど、メキシコ経済は目に見えて混乱を極めた。誘拐事件の発生など、治安も悪化したため、五月女氏は一時帰国するが、今度は地下鉄車両の電機システム事業で再びメキシコに。

この事業の受注をきっかけに、五月女氏は、先に設立した合弁会社をベースとして、何か新しい事業を開拓できないかと奔走することになった。スペイン語使いの五月女氏はいつのまにか、三菱電機の中南米市場戦略を担う若手の1人になっていた。

■「アスタマニャーナ」

海外赴任は、中南米一色だった。メキシコの後、ベネズエラに5年、アルゼンチンに5年と、13年以上も南米で過ごした。そのため、五月女氏の経営哲学は南米的でもある。「通常、日本人ビジネスマンは『アスタマニャーナ(また明日)』という考えを嫌う。中南米気質の先送り主義だと。だけど自分はそうは思いませんね」と話す。特に相手との交渉事だと、明日まで待てば状況が良くなるかもしれない。知恵も出てくる。今日は相手が硬直した態度だったが、明日までに考え直すかもしれない。そうした戦略を尊重すべきだという考えだ。

社会派文学だった読書傾向は近年、「日本語論」に変遷している。日本語にずいぶんこだわるあまり、最近流行りの日本語本などは読む気がしないそうだ。(香港編集部・西原哲也)

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