2002/06/14

第1回 道に迷わば、いざ行かん 清水良彦・住友商事香港社長


第1回 道に迷わば、いざ行かん

日本人クラブで開かれた今年の新年賀詞交換会――。商工会議所会頭を務める清水良彦・住友商事香港社長が、会場を大いに沸かせた。開会挨拶で、サッカーのワールドカップの日本優勝など、景気のいい「今年の5大予測」を披露したからだ。そうした社交場でのユーモアセンスと、果敢に攻める攻撃的ビジネスの両面は、清水氏の性分を表しているようだ。

清水氏は、香港での駐在員生活を始めた一昨年のある日、ふと気付いた。「そういえば、生まれて初めて足を踏み入れた海外の地は香港だった」――。

1947年、大阪の東住吉区に生まれた。将来外国を飛び交う運命を暗示するかのように、幼い頃は飛行機を見てはあれに乗せろと何度も母親にむずかった。

父親の仕事の関係でロンドンに住むことが決まったのは、7歳の時だった。当時ロンドン行きは、香港経由のプロペラ機しかなかった。初めて乗った飛行機はカイタック空港に着陸し、丸1日外出できた。「母親と姉と3人でスターフェリーに乗って香港島に渡ったんですが、腹痛に襲われるわ、帰りのバスを逃すわで、恐ろしい思いをしました」。それが、香港との初めての出会いだった。      

■入社の理由

日本に戻った清水青年が、一橋大学で学生時代を過ごしたのは、米国のジョンソン大統領がベトナム戦争を泥沼化させ始めた頃と重なる。日本では全国の大学で学生運動組織が結成され、デモが盛んに繰り広げられた。普段はクラシックギターをつま弾く穏やかな生活だった清水青年も、卒業を翌年に控えた1969年には激しい大学紛争に巻き込まれた。

同級生たちが就職を次々に決めていくのに焦った清水青年は、当時商社としてはまだ地味だった住友商事を紹介された。ところが、同年5月にあった入社試験には行くことができなかった。

その日、一橋大学は奇しくも、国立校舎が封鎖され、授業も受けられない事態が11月まで続くことになったためだ。清水青年は住友商事の人事課に直ちに電話し、大学封鎖の影響を訴えた。その結果、恩情措置を受けて追試を許され、「補欠の補欠で」入社できた。

だが「真実」はちょっと違っていたようだ。「本当は、寝坊して行けなかっただけなんです。もう時効の話ですから言えますけど(笑)」。

■自己責任の理念

住友商事では、入社から船舶部門一筋できた。船舶を海外に輸出するため。ニューヨーク、ロンドン、オスロなど港町を出張で転々とした。社内では「ソフトな異端児」だったと言える。住商の厳しい企業文化の中で、自己の流儀を貫いた。そうして、結果は出してきた。

ビジネスは、迷うことばかりだ。だが、迷った時には、必ず積極的に進む方を選んできた。「行くべきか行かざるべきか迷う時には、行っちまえと。失敗の可能性があっても行く。その代わり、結果責任は必ず負うんです」。トータルで勝ち越せばいいのだという理念だ。

部下には、あまりあれこれとうるさく言わない。その代わりひとつだけ、厳しく念を押すのは、「業績には責任を持て」ということだ。「後は自由にやっていい。すると伸び伸びやってくれる。任されると、皆責任を持つんですね」。自己管理・自己責任は、子供の育て方にもあてはまる――が持論。清水氏が中学3年生から親元を離れたように、一人娘にもそうさせているそうだ。

長い海外生活で感じるのは、客観的に判断することの難しさだ。異文化・異宗教の地でも、その地に住むと、感性がその地に同化されがちだ。前任地のニューヨークで感じていた事も、米国を離れた今では違って見える。今は日本のおかしい点が見えるが、日本に居れば多分気が付かなかっただろう。香港に来た当初も、未収金事案の常態化に目を丸くしたものだが、その感覚が希薄化しないよう自戒しているという。

清水体制になってから、住商は華南地域にある香港、広州、深セン、アモイの4拠点を清水社長の下に一元化し、「華南一体運営」を始めた。4拠点の鉄鋼、非鉄、化学品、機電など各8部門をトップが見渡し、経営効率を高めようとの判断からだ。その結果、情報交換が地域間でスムーズにできるようになるなど、思いがけないメリットも出てきたという。

香港の業績は順調に伸びている。「酒の席で部下に言ってやったんです。『君たちはならず者ばかりだ。だが、そのならず者たちが融合して、巨大な力となっているのだ』と。実際、一人ひとりがならず者でないと、いい結果はでませんよ。でも皆、不満顔でしたね(笑)――」。(文・西原哲也)

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