2001/03/12

第20回 凸版印刷(香港)<凸版印刷>、香港の「知的好奇心」を刷り続ける



凸版印刷の香港での歴史は長い。初めて香港に進出したのが1963年だ。その直後の本土の文化大革命の影響で、社会的に混乱を極めた時期もくぐり抜けてきた。そうして90年代から始まった雑誌広告支出の頭打ちに伴い、とりわけ競争が激化した香港の印刷業界を勝ち残った。現在、域内の雑誌印刷シェアのトップを走っている。

日本と比べ、香港の雑誌業界は独特だ。日本では、書籍取次店が持つルートで本や雑誌が販売される。取次店の統計を合計すれば、流通する雑誌の数や販売部数は自ずから出るわけだ。だが香港の場合、日本のような取次店が存在せず、弱小出版社でも独自のルートで販売する。しかも雑誌は頻繁に神出鬼没を繰り返す。そのため出版事情は非常に不透明なのだという。

凸版印刷の藤林敬洋・社長は「オーソドックスなタイプの『中とじ』と、ゴム材で製本する『無線とじ』を合わせ、わが社は雑誌シェアの約3分の1を生産している」という。業界で外資は同社を含め日系2社、スイス系など4社程度だが、同社が域内最大のシェアを維持している。担当する具体的な雑誌は、メディア大手のサウスチャイナ・メディア系などの主要雑誌のほか、『リーダーズ・ダイジェスト』など欧米向けの輸出物も生産している。

■雑誌は香港、書籍は深セン

凸版印刷は93年、深センに独資の子会社を設立した。当時、労務費がはるかに安い深セン法人へ香港内の業務を全て移管すればコスト的に効率的ではないか、との意見もあった。だが、中国本土内での雑誌生産活動には制約が多いのがネックだった。また「香港で築き上げた雑誌の商権を手放すわけにいかなかったし、香港の法人税制も魅力的だった。香港法人が、深セン法人の窓口的役割を果たす『加工貿易型』にも道を見出せた」(藤林社長)という。香港法人が、より広大な現在の元朗に工場を移したのはそれから2年後だった。そうして書籍は深セン、雑誌は香港と、両法人の住み分けが出来上がった。深A側では意外なものも生産している。音の出るカードや化粧箱、壁紙の見本帳など、機械ではできない手作業を要する物まで作っている。

実は香港法人と、深セン法人の存在意義には、昨年8月に改訂された中国本土のある法律も絡んでいる。『中国印刷業管理条例』だ。中国政府に都合の悪い反政府的・宗教的内容の印刷物の禁止を明確に規定してあるのが特徴だ。そうした規制が及ばない香港側で印刷することには、数字には表れにくいメリットがあるのだという。

印刷業のシェアは、印刷設備の保有台数とも比例する。雑誌は通常、「オフセット輪転機」で印刷される。印刷版から紙に直接印刷せず、一度ゴム布に印刷してから紙に印刷する方法だ。スピードが必要とされるため、巨大な巻き取り紙を使う高速輪転方式を利用している。3分の1のシェアとは、市場のオフセット印刷機台数の3分の1を、保有していることでもある。それだけ効率的に生産できるわけだ。

「早さと質が売り」

増淵健二・工場長は「わが社の売りは『受注してから、いかに早く、正確に、質のいいものを納めるか』にある。午後にポジフィルムをもらい、夜に納品することもできる」と自負する。生産が受注ベースで、計画生産でない以上、収益率を高めるには稼働率を上げるしかない。毎日24時間、輪転機は稼働しっぱなしだという。

現在、香港では景気低迷で企業が広告支出を減らす傾向が続いており、それが雑誌の潰し合いを顕著にしている。発行部数は最盛期と比べ20%減少した。これに伴い、印刷会社の受注価格も圧迫されるなど、市場は厳しい状況にあるのは確かだ。だが、同社は悲観はしていないという。藤林社長は「香港に知的好奇心がある限り、そして香港と深センとの間にボーダーがある限り、われわれは生き残りますよ」と話していた。

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