NNAカンパサール

アジア経済を視る October, 2022, No.93

【プロの眼】戦場のプロ 傭兵・高部正樹

第6回 さまざまな人生集う
    戦場に生きた人たち

戦場にいるのはプロの兵士ばかりではありません。地域の住民、日々の仕事や商いに訪れる者、時にはジャーナリストや学生なども。そうした中には、望む望まないにかかわらず戦争に巻き込まれてしまう人々もいました。今回は傭兵活動で出会い関わってきた中でも、私の記憶に強く残る「戦場に生きた人たち」の話です。

高部氏と仲が良かったミャンマー・カレン族の若者たち。皆、家は難民キャンプだが町に働きに出ていた。「交際した女性もいました」という(筆者提供)

かつて訓練した学生兵士(左、右)と。彼らはカレン軍に入り、少尉に任官されていた(筆者提供)

現在、ミャンマーでは民主化を望む人々が軍事政権を相手に激しく戦っています。私がカレン民族解放軍(KNLA)に関わった頃も似た状況でした。1988年に発生した民主化運動の中心となった学生たちも軍政に弾圧され、多くがタイ国境の山岳地帯に逃れてKNLAと合流。全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)を結成し、武力闘争を始めます。

われわれ日本人兵士は、彼らの訓練を任されることになりました。学生たちの国を思う気持ちは痛いほど伝わってきます。しかし、いかんせん体力が絶望的にありません。少し走れば息が上がり、重い荷物に文句を言う。それも仕方ありません。ミャンマーで大学生といえばエリート層。甘やかされて育った彼らを、わずかな期間で使える兵士にしろというのが無理な話で、予想通り訓練に耐えられない者が続出しました。

そうした中、Mは一風変わった存在でした。民主化の理想を唾を飛ばして熱く語る学生と違い、常にひょうひょうとしています。隙あらばサボろうとし、怒られても笑顔で舌を出すような若者でした。

そんな調子のいい男ですが、熱い学生が次々脱落する中、なぜか彼は残ります。人懐っこく、われわれ教官の間に入り込んでは「Sir, Sir...」(サー、教官への呼びかけ)と屈託ない笑顔で話しかけてくる彼は憎めず、いつの間にか学生のリーダー的存在になっていました。

ある時の事です。隣のキャンプで、衛生兵を志願する女子学生への訓練が始まりました。「Sir、女の子がいっぱいいます!」。学生たちは無邪気にはしゃいでいます。毎日ジャングルのキャンプに閉じ込められ、男所帯の中でつらい訓練の毎日ですから浮足立つのも当然でした。

われわれは「お前ら、そんなに気になるなら連れてこいよ」とけしかけました。もちろん冗談です。しかし、Mたちはこれ幸いと隣のキャンプに忍び込み、本当に数人の女子学生を連れてきてしまったのです。

時間も遅く、いまさら帰せません。女子学生たちも、まるで遊びに来たかのようにはしゃいでいる。仕方ないので、学生にありったけの菓子を集めさせて合コンを開催させました。学生たちは狂喜乱舞。お茶しかないのに、飽きもせず夜を徹しておしゃべりに興じます。夜明けとともに、Mに元のキャンプへと送り届けさせました。

「Sir、ありがとうございます」。にやりとするMに「こいつ確信犯だな」と思いましたが、彼のおかげで学生たちにとってはいい息抜きになったと思います。

カレン軍のモーター曹長。裁縫が得意で「テイラー」のあだ名を付けられた。高部氏とは「兄弟のような仲」だったという(筆者提供)

「また合コンやろう」
診療隊を逃がし敵前へ

そんな学生たちも、訓練が終わるとABSDFの各大隊に配属されていきました。しかし、戦闘力の低さは否めません。学生部隊は被害が大きく、徐々に前線に出されなくなります。そして部隊も大幅に削減されますが、その一方で希望者はカレン軍に編入されました。

Mは意外にも軍に留まる事を選択し、カレン軍で戦い続けました。第一線の部隊で数年戦った後、移動診療隊に配属されます。ジャングルに点在するカレン族の村を巡回し、村人の治療に当たる医療チームです。彼の任務は巡回するチームの警護ですが、警護する側もせいぜい2~3人。接敵すれば不利な戦いを強いられます。

アフガニスタンの前線指揮官だったアブドラマリック(左)。勇敢で有名。たった1人で旧ソ連軍の監視哨を攻略したという武勇伝の持ち主(筆者提供)

彼は何と、かつて合コンに連れてきた女子学生の1人とそこで再会しました。その時の話で盛り上がり、2人はすぐに打ち解けたそうです。Mは彼女と一緒に任務に当たります。

ある時、Mの部隊は運悪く接敵してしまいます。絶望的な状況下、Mは医師やナースである彼女に早く逃げるよう告げると、仲間が逃げる時間を稼ぐためにその場に留まります。奮闘のおかげもあって、医療チームは無事に帰還することができました。しかし、警護チームはMを含む全員が未帰還、「MIA」(戦時行方不明)となりました。

彼女によると、Mは「また合コンやろうな」という言葉を残して、敵に向かっていったそうです。

調子が良くて頼りない、どこにでもいるような普通の学生だったMでしたが、いつの間にか誇れる教え子になっていました。

砲撃聞き分け弾薬売る
豪快なおばちゃんたち

忘れられない人は兵士ばかりではありません。タイとの国境付近の要衝であるワンカーの拠点には、日本人兵士から「おばちゃん」と日本語で呼ばれて慕われる、肝っ玉母さんがいました。小柄で物静かな性格でしたが、最前線で茶店を10年以上も営業する猛者です。掘っ立て小屋のような粗末な店で、「おばちゃん、ラパティ(カレン風のお茶)!」と大声で頼むのが何よりの楽しみでした。

このおばちゃん、砲撃に対する反応がベテラン兵士並みに優れていました。日常的に砲撃にさらされるワンカーでは、敵の砲声を聞き分ける能力が生死を左右します。この付近なら例えば、弧を描いて飛んでくる迫撃砲は発射音が聞こえてから約35秒で着弾。標的に向けてまっすぐ飛ぶ無反動砲なら1秒程です。

おばちゃんはこれらを瞬時に聞き分け、迫撃砲の砲声だとそのまま手を止める事なく平然と仕事を続け、20秒ぐらいしてから脇の退避壕(ごう)に悠然と入っていきます。逆に無反動砲と判断すれば脱兎のごとく飛び込むか、瞬時に伏せるのです。あまりに見事で、新人が来るたびに「おばちゃんの所で勉強してこい」と茶店に行かせたものでした。

フランス人兵士H。口癖は「俺に扱えない武器はない」。「私が見た中では一番の腕利きの傭兵で、アフガンでは敵対組織にいたがカレンでは味方だった」(筆者提供)

おばちゃんは、われわれ外国人兵士に対して親切で、いつも気にかけてくれました。

ある時、日本人の1人が無謀にも自分の武器をタイ領を通過させてワンカーまでひそかに運ぼうとしました。道中、国境の町で買い出しするおばちゃんにばったり会うと、おばちゃんは瞬時に持ち物が銃だと悟ります。すると「そっちじゃない。ついてこい」と合図し、安全なルートでワンカーまで導いてくれたそうです。ばれたら自分も捕まるのに‥‥本当に肝っ玉の据わった人でした。

もう1人、面白いおばちゃんがいました。そちらも、あだ名はおばちゃんです。

タイの町からワンカーに向かう途中、キャンプの手前で誰も来ないようなところに掘っ立て小屋の駄菓子店がありました。この店、実は武器の密売もしていたのです。われわれが通るたびに呼び止めては「今日はいい手りゅう弾があるよ」「5.56ミリのトレーサー(えい光弾、発光することで軌跡が見える弾丸)が安いよ」とか、とにかく商売熱心でした。

ある時は「これ150バーツ(当時の為替で750円ほど)でいいから持っていきな」と、白リン弾手りゅう弾(WP)を差し出されました。激しく燃焼しながら白煙をあげる発煙焼夷(しょうい)弾ですが、とにかく重いので要らないと言うと「お前ら最近押されっぱなしだろ。退却する時に重宝するからさ」と言いながら、強引に押し付けられます。われわれが劣勢と聞き付けてWPを仕入れる辺りは商魂たくましいのか、それとも心配してくれたのか。

戦場で出会ったおばちゃんたちは、実に気が良くて豪快で楽しい女性ばかりでした。

【動画】ワンカーのおばちゃんの駄菓子店(筆者提供)

軍高級将校に直談判
義勇兵のパイオニア

カレン軍では一緒に戦った日本人が何人かいますが、その中でもNは忘れられない存在です。関西出身の彼と出会ったのは90年。小柄で痩せ型、短気ですぐにいらいらして当たり散らす「いらち」でした。一見、付き合いにくそうなタイプですが、カレンで戦う日本人にとってはパイオニア的な存在でした。

カレン軍には日本人が何人か参戦しましたが、まだ日本人が1人もいなかった頃に軍の高級将校に直談判して自ら参戦し、後に続く日本人の義勇兵たちへの道筋をつけたのが彼でした。彼がいなければ日本人がカレン軍に集う事はなかったでしょう。

Nの経歴はちょっと変わっていました。まず大学生の頃、井戸掘りのボランティアとしてラオスに入るのですが、そこで反共ゲリラとして戦う王国派の残党と知り合います。すると、彼らが求めるものを取り戻すには武力しかないと悟り、銃を手に取ります。そして、ラオスで数年戦った後、今度はミャンマーに渡ってKNLAに参戦したのです。

周りは元自衛官がほとんどの中で異色の経歴ですが、とにかくカレンのためという思いは人一倍。最前線では常に一番激しいところを熱望します。「わしらが一番激しいところ行かな意味ないやろ」が彼の口癖でした。カレンの民が必要とする物ならばと、帰国のたびにあれこれ調達してきます。スーツケースの中のほとんどが、頼まれた無線機だった事もあります。頭の中は「カレンのため」というワードで埋め尽くされていたのです。

特殊破壊工作部隊に配属された私とNは、少人数で敵の支配地域に潜入して橋や軍施設を爆破するという任務に従事します。未帰還が極めて多い非常に危険な任務でしたが、常に一番厳しいところを望んでいたNは、この頃が最も生き生きしていたと思います。

身売りされる少女
全財産はたき救う

2009年に参加した、クロアチアのブコバルで開かれた戦争犠牲者の追悼式典時の1枚。親友のガストン(右)は元フランス陸軍。東南アジアを歴戦し、ボスニアでは現地人部隊の小隊長も務めた(筆者提供)

95年ごろから、Nの行動が少しずつ変わります。猛威を振るうマラリアから人々を救う活動へとシフトしていったのです。所属部隊から離れ、移動診療隊と行動する事が多くなりました。どんな村に行き、どんな人たちを治療してきたか、よく楽しそうに話してくれました。考えてみると、彼の活動のきっかけは井戸掘りボランティア。本来は人助けをしたかったのだと思います。

しかし、やがてN自身が何度もマラリアにかかり生命を削られていきます。どんどんやつれゆく姿に、休養を取るよう何度も言いましたが彼は聞き入れませんでした。そして国境の町に借りていた部屋の中、悪性のマラリアによる意識不明の状態で発見された時は既に手遅れの状態でした。奇跡的に一度目を覚ましたものの、その時に一言だけ発した「日本に帰りたい」という希望がかなう事はなく、バンコクの病院で息を引き取りました。

彼がまだ元気だった頃のことです。ある日、カレン族の少女が10万円にも満たない金銭で身売りを迫られているという話を聞きつけると、Nはすぐにそこへ向かいました。当時、日本人の義勇兵に金銭の報酬らしい報酬はありません。日本に帰国するたびにアルバイトをして、なけなしの数万円を手にカレンの戦場に戻る生活のわれわれに10万は大金でしたが、Nは惜しげもなく全財産をはたいて彼女を助けました。

しばらく後になってから、私はその話を本人からではなくカレン人の友人から聞きました。

「おい、らしくない事をするじゃないか」

「お前には関係あらへん」

からかうように言うと、怒鳴るように大声を出してどこか行ってしまいました。きっと照れくさかったんだと思います。死んだと聞いた時、頭に浮かんだのはなぜかその時の横顔でした。いらちで強引でしたが、いつも他の誰かのために行動する優しい男でした。武力闘争に身を投じたのも、きっとそれが彼らのためになると信じたからでしょう。

今でもカレン軍の関係者と話す時には、Nの話がよく出てきます。現地の人にも私にも、忘れられない功績と思い出を残した男でした。

カレンでの戦友N(左)と現地兵ホーマン(右)。ホーマンは日本の歌手・菊池桃子の大ファンで、帰国時にカレンダーを手に入れて持って行くも、数日違いで戦死してしまっていた(筆者提供)


高部正樹(たかべ・まさき)

1964年、愛知県生まれ。高校卒業後、航空自衛隊航空学生教育隊に入隊。航空機の操縦者として訓練を受けるも訓練中のけがで除隊。傭兵になることを決意し、アフガニスタン、ミャンマー、ボスニアなどで従軍する。2007年、引退し帰国。現在、軍事評論家として執筆、講演、コメンテーターなどの活動を行う。著書に『傭兵の誇り』(小学館)、『戦友 名もなき勇者たち』(並木書房)など。自身をモデルにしたコミックエッセー『日本人傭兵の危険でおかしい戦場暮らし』が雑誌『本当にあった愉快な話』(竹書房)で連載中。


バックナンバー

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第4回 食べるのも仕事の内 試練に満ちた食生活
第3回 戦場超える過酷さ? 収支赤字のお金事情
第2回 銃弾飛び交うアフガン デビュー戦と最初の壁
第1回 「100万人に1人」の男 アジアの戦場を目指す

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