アジア通

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【アジア取材ノート】ベトナム「魚大量死」 傷ついた安全・安心

2016年11月号

ホーチミン市内のベンタイン伝統市場。食の安全に対する市民の関心は高まっている(写真はイメージ)

今年4月、ベトナム北中部〜中部の海岸に大量の魚の死骸が打ち上がり、全土に衝撃を与えた。原因は台湾系の製鉄所からの排水と結論づけられたが、その後も製鉄所の不法投棄などが次々と明るみに出ている。各地で異例の抗議デモまで引き起こした大量死。その傷跡を追う。
渡邉哲也=文・写真

魚大量死の被害

大量死が発生した4月以降、ホーチミン市で生鮮食品を扱うスーパーでは魚の売れ行きが落ち込んだ。

「被害を受けた地域から遠い南部の魚介類を売っている。でもお客さんは産地表示を信じてくれないんだ」。スーパーの社長は消費者の不信を肌で感じている。

政府の調べによると、被害4省(ハティン省、クアンビン省、クアンチ省、トゥアティエンフエ省)の沿岸20カイリ(約37キロメートル)以内で捕れた海産物の価格は3〜5割値崩れした。

消費者の不安は深刻だ。調査会社DIマーケティング(ホーチミン市)が5月に実施した調査によれば、ベトナムの食品を安全でないとした回答は94%に上った。ほぼ全ての消費者が不信感を募らせている状況だ。

観光客離れも進み、ハティン省のホテルは稼働率20%以下と閑古鳥が鳴く。影響を受けた住民は30万人と推計される。製鉄所から80キロ離れたクアンビン省のリゾート地、ドンホイの住民は「今は魚も食べられるし、海でも泳げる。でも観光客が戻ってこない」と嘆く。

「私たちは魚を選ぶ」

魚大量死の原因とされたフォルモサの製鉄所=9月、ハティン省

魚大量死が製鉄所の排水によるものではないかという疑惑は早くから浮上していた。だが製鉄所を運営する台湾系のフォルモサ・ハティン・スチール(FHS)は当局の立ち入り調査を当初は拒否したとの情報もある。

「フォルモサがやったのは誰もが分かっていた。ただ政府は外資に遠慮して情報を出さなかったのよ」。ハノイの30代女性は市民感情をこう代弁する。

6月30日、魚大量死の原因を製鉄所からの排水によると結論づけた政府調査結果が発表されると、女性は「ようやく政府がやってくれた」と留飲を下げた。

実際、政府の対応は一貫しなかった。大量死は当初、製鉄所がある北中部ハティン省キーアインで4月6日に発生。その後にクアンビン省、クアンチ省、トゥアティエンフエ省の沿岸200キロに拡大した。21日には地元有力紙が一面トップで取り上げて全国区の騒ぎとなるが、天然資源・環境省などは「フォルモサは無関係」との見解を出した。

風向きを変えたのはFHSの失言だ。FHSの親会社である台湾プラスチックグループは、本格的な製鉄所運営の経験に欠けていた。広報責任者がインタビューで「何かを得るためには何かを失わなければならない。漁業をとるか、製鉄所をとるかだ」と発言した映像が放映されると、市民感情に火が付いた。

ネット上で「私たちは魚を選ぶ」のスローガンが立ち上がり、反フォルモサ運動は瞬く間に拡大。責任者は翌日には謝罪したが「炎上」は止まらなかった。

5月に入るとハノイやホーチミン市で真相究明を求める市民が週末ごとに抗議デモを繰り返しては、次々と連行された。サイゴン大教会前では100人以上の若者たちが公安(警察)ともみ合い、担ぎ出されるように排除された。

デモ情報が出回る週末はフェイスブックへのアクセスが遮断されたが、情報統制はかえって不信をあおった。自らが拘束された様子をつづった女性の投稿は、1万回にわたってシェアされた。欧米系メディアや各種ソーシャルメディア(SNS)によれば、8月以降もフォルモサに対する抗議デモは起きている。

くすぶる不満

排水汚染による魚大量死に対する抗議デモ=5月、ホーチミン市

FHS製鉄所の張復寧副社長は6月15日、第1高炉の火入れを無期限に延期したことを台湾メディアに認めた。

製鉄所が稼働すれば、中国からの輸入に依存している熱延薄板やコイルの自給が進むはずだった。第1期だけで事業費は105億米ドル(約1兆540億円)に上るという東南アジア最大級の製鉄所計画には、法人税の減免など大型優遇措置が提供された。国内初の大型一貫製鉄所は稼働を目前に立ち往生している。

フック首相は開発において環境を犠牲にしない姿勢を打ち出す=8月、ハナム省

4月に就任したばかりのグエン・スアン・フック首相は、高まる世論の圧力の中で「誰が背後にいようが明るみにする。隠ぺいは許さない」と宣言。政府による調査団は6月末にFHS製鉄所からの排水が大量死を引きおこしたと断定した。

同時にFHSによる5億米ドルもの補償金の支払い、さらに海洋環境の再生や再発防止措置に取り組むことなども公表された。

しかし、FHSが責任を認め、再発防止を約束した後も問題は収束しない。製鉄所周辺の農地などから数百トン規模もの不法投棄が次々と明るみに出て、フック首相も「違反を繰り返せば製鉄所を閉鎖させる」と批判した。

環境問題で目に見える結果を出さなければ矛先は自らに向かう。魚大量死問題の裏側で煮え立つ市民の怒りに指導部も気づいている。

日本には商機も

東北大学の川端望教授は「今後注意しなければならないのは、政府の外資系企業に対する態度が変化するかどうか」と指摘。出資比率規制など過度な対応に触れる可能性を懸念する。

一方、環境への意識の高まりや規制の強化は、先進的な技術を持つ日本にとっては新たな商機にもなり得る。ホーチミン市内で日本食レストランを展開する地場企業の社長は、「日本の安全な食品を輸入する後押しになる」と先を見据える。

FHSに株式の5%を出資するJFEスチールは「FHSから要望があれば関連する情報やデータなどの提供により引き続き協力していく」としている。

FHSはベトナム社会に「安心」を与えることができなかった。今後、FHSが製鉄所の失墜したイメージを回復させ、ベトナム社会との共存を実現するためには、経験豊富な日本の鉄鋼メーカーが果たす役割は大きいはずだ。

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